誰にでもわかるパレスチナ問題   主任研究員 矢野裕巳

 新聞、ラジオ、テレビ等で最近毎日のように耳にし、目にするパレスチナ問題、現代の中東問題も、根本原因はパレスチナ問題にあるという報道を聞かれた人もあると思います。
 それでは、パレスチナ紛争とは何なのか?また、いったい何が問題なのかを考えてみます。

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誰にでもわかるパレスチナ問題

 新聞、ラジオ、テレビ等で最近毎日のように耳にし、目にするパレスチナ問題、現代の中東問題も、

根本原因はパレスチナ問題にあるという報道を聞かれた人もあると思います。
 それでは、パレスチナ紛争とは何なのか?また、いったい何が問題なのかを考えてみます。

誰にでもわかるパレスチナ問題(その1)主任研究員 矢野裕巳

「パレスチナ紛争、何が問題なのか?」

 

 新聞、ラジオ、テレビ等で最近毎日のように耳にし、 目にするパレスチナ問題、現代のイラクの紛争も、 根本原因はパレスチナ問題にあると言う報道を聞かれた人もあると思います。
 それでは、パレスチナ紛争とは何なのか?また、一体なにが問題なのかを数回にわけて考えてみます。

まずは、 おおまかに古代から現代までの歴史を考えてみましょう。


エルサレム市街 筆者撮影

 


 ユダヤ人はパレスチナ(イスラエル)に紀元前1000年ごろ、今から、3000年程前に王政をしきました。 そして、ダビデ王、ソロモン王の約80年間に最盛期をむかえます。皆様の中にも、ダビデ、ソロモンという名は 聞いた事のある方が多いとおもいます。共に旧約聖書にあらわれる人物で、2人にまつわる数々の面白い話が残さ れていますが、今回は、ダビデは首都をヘブロンからエルサレムに移した人物、ソロモンは壮大な第一神殿を建て た人物と覚えておいて下さい。 この、ダビデ、ソロモンの古代イスラエル王国絶頂期のあと、王国は2つに分かれます。北のイスラエル王国と南のユダ王国です。北はまもなく、アッシリアに滅ぼされます。南はしばらく続き、 やがて、バビロニアに滅ぼされユダヤ人は奴隷として連れていかれます。のちに、エルサレム帰還をゆるされ、 第2神殿の再建を始めます。その後、周辺諸国による征服、また、それに対する反乱を繰り返し、一時王政を 復活させます。

 紀元70年ロ-マによりエルサレムの第2神殿が破壊されユダヤ人の離散がはじまります。これ以後1948年までのおよそ1900年間、ユダヤ人は自分達の国をもつことはなかったのです。ユダヤ人が世界に散っていた1900年の間パレスチナ(現在のイスラエルが存在している土地)には当然ユダヤ人以外の人達が住んできました。 もちろんユダヤ人のなかにも離散せず、そのままパレスチナに住み続けた人も少数存在しましたが、人口割合としては小さいものです。

 一言で言えば、パレスチナ紛争とは、四国よりやや広い、パレスチナという現在イスラエルが存在している土地をめぐる領土問題です。2000年近い年月のあと、かつて、自分達の先祖が暮らしていたと思われる土地に移り住んできたユダヤ人と以前から暮らしていたパレスチナ人との土地争いということです。

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その2)主任研究員 矢野裕巳

 

「パレスチナ紛争はここ100年の問題」

 

 紀元前15世紀~16世紀、今からおよそ3500年程前、神はアブラハムにカナン(イスラエル)の土地を与える事を 約束する。アブラハムはカナンに行くが、その子孫は飢饉の為、一時エジプトへ逃れる。そこでの奴隷生活をモーゼが 救い出しユダヤ人は再びカナンに戻る。それ以後は前回お話したように、ダビデ、ソロモンと続き紀元70年ローマに 滅ぼされ、それ以後ユダヤ人は国を持たず、1948年のイスラエル独立へと歴史は展開する。

 では、アブラハムが神の約束に従いカナンの地へ入った紀元前16世紀にはこのカナンには人は住んでいなかったので しょうか?実際にはこの地には、紀元前20世紀ごろからカナン人と呼ばれる人々が住みつき始めた様です。この地域の 人種の発祥については様々な説があります。が、少なくともアブラハムがカナンの地に来た時、エルサレムもジェリコも 都市国家としての機能を持っていたといわれており、その後、前回触れたダビデ王がヘブロンからエルサレムに首都を 移しますが、そこには、原住民が生活していた事になるでしょう。

 私自身は、すべての土地には先住民が存在し、そのことをもって国家の歴史を語れないことの理不尽さを感じます。 それでも旧約聖書、中東関係の書物、また、「十戒」を始めとする映画に見られるように、パレスチナの歴史が、パレス チナ史というより、ユダヤ民族史ではないかという考えがあることも覚えておくべきかも知れません。紛争があると言う ことは相反する二つの考えが存在することで、パレスチナ紛争の根源も、こんなところにあるかもしれません。

  ユダの砂漠 筆者撮影

 パレスチナの長い歴史を考えてみれば、あたかもこの地域の紛争は何千年まえから続いているように 思われる人も多いかも知れません。しかし、今日のパレスチナ問題は古来の歴史的経緯から生じたものではありま せん。今から100年程まえに起こったヨーロッパからパレスチナへのユダヤ人の移住がきっかけなのです。 それまでは、アラブ人、ユダヤ人はそれぞれ、別の宗教をもちながら、共存して来た歴史があります。その移住へと 追い立てたユダヤ人への差別、迫害がこの問題の根源をなすものです。

「シオニズム」

 ヨーロッパを中心とするユダヤ人に対する迫害が強まる中、ユダヤ人の国を創ろうとする運動が今からおよそ100年前におこりました。『ヨーロッパ各国にいかにユダヤ人が同化しても、結局反ユダヤ主義によって迫害される。ユダヤの国が再建されない限り、真のユダヤ人の解放はあり得ない。』と考えたのでした。自分達の祖国に帰ろうというこの運動はシオニズムと呼ばれています。シオンとはエルサレムの別名であります。国を失ったユダヤ人はいつか救世主があらわれエルサレムに神殿を再建してくれることを信じていました。しかし、これはあくまでも宗教的な信条であり、『ユダヤ国家再建』をめざす、シオニズムとは無関係であったのです。

 シオニズムの指導者テオドール、ヘルツルはもともと、ユダヤ人の移住先がパレスチナでなくとも、アフリカのウガンダや南米のアルゼンチンでもよいと考えていたのです。今でも少数でしょうが超正統派とよばれる人々は社会主義を自認していたシオニストが造り上げた世俗国家イスラエルの存在を認めていないといわれています。彼等は、神が自分達を約束の地から追放し、神が許すまでは離散生活を継続すべきだと考えているようです。人間が勝手に国を創ってはいけないということです。
シオニズムの原点である、他民族と同じように自分達の国を、ユダヤ人が少数民族でない国を創ろうという考えは聖書の考えに反するのでしょうか?神から選ばれたユダヤ人(選民)が他民族と同じでは具合が悪いのでしょうか?

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その3)主任研究員 矢野裕巳

 

「ユダヤ人とは?」

 ユダヤ人とは誰か? これにはさまざまな解釈があります。サルトルは著書『ユダヤ人』のなかで、『他人によって ユダヤ人と呼ばれる人がユダヤ人』と言い切っていますが、どうもピンときません。イスラエルでは多くの論争の後、 次のように考えられている様です。

 『ユダヤ人はユダヤ人の母親から生まれた者、ユダヤ教に改宗した者で他の宗教に帰依していない者』。基本的には ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々と考えられるのです。つまり、ユダヤ教を信じていれば人種や言語に関係なく ユダヤ人としてみなされるようで、日本人として生まれてもユダヤ教の熱心な教徒であるならユダヤ人として認められる 事になるのです。それほどまでも、ユダヤ人とユダヤ教との結びつきは強いと言えるでしょう。

 

「パレスチナ民族?」

 パレスチナの長い歴史を考えてみれば、あたかもこの地域の紛争は何千年まえから続いているように 思われる人も多いかも知れません。しかし、今日のパレスチナ問題は古来の歴史的経緯から生じたものではありま せん。今から100年程まえに起こったヨーロッパからパレスチナへのユダヤ人の移住がきっかけなのです。 それまでは、アラブ人、ユダヤ人はそれぞれ、別の宗教をもちながら、共存して来た歴史があります。その移住へと 追い立てたユダヤ人への差別、迫害がこの問題の根源をなすものです。

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その4)主任研究員 矢野裕巳

「2枚舌? 3枚舌?」

第一世界大戦が始まるまで、パレスチナはオスマントルコの支配を受けていました。イスラム教は本来他の宗教には 非常に寛容で、オスマントルコの治世下にあっても、アラブ人もユダヤ人も仲良く共存していたといわれています。
 第一次世界大戦でオスマントルコと戦った英国は、戦争を優位に進めるために2つの、いや3つの矛盾する条約、 約束を大戦中に結んだのでした。このことが、今も続く紛争の種となったのです。

 英国は『フセイン、マクマホン書簡』と呼ばれる往復書簡を通じてアラブに対し、パレスチナを含む東アラブ地域に独立アラブ王国を樹立することを約束しました。同時に英国はユダヤ人に対してはパレスチナの地にユダヤ人のナショナルホーム(民族的郷土)を設立することにも支持を表明したのでした。これは、『バルフォア宣言』とよばれています。

  エルサレム旧市街 筆者撮影

 

 

 

 

 

 

 

 


 この2つの合い矛盾する約束に加えて、英国はフランスとは、『サイコスピコ協定』を締結。フランスとの間で、大戦後の中東をいかに分割するかについて合意したのでした。当然英国はフランスとの約束を最重視し、英仏は自分達 だけでオスマントルコ後の中東の領土分割を取り決めてしまいました。  これが、いわゆる中東での英国による2枚舌、3枚舌外交と呼ばれものでした。 第一次世界大戦のあと、1922年、パレスチナは英国の委任統治領となり、アラブの独立国家も、ユダヤ人のナショナルホームも現実のものとはなりませんでした。ただ当然これで、アラブ人もユダヤ人もおとなしく引き下がる事はできな かったのでした。

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その5)主任研究員 矢野裕巳

「国連分割案(1947年)」

 アラブ人との約束、ユダヤ人との約束、はたまた、フランスとの約束を通して、英国は第1次世界大戦前後、自ら招いた 三枚舌外交のつけをその後払わされる事となります。

 1920年、サンレモ会議でパレスチナは英国の委任統治領と認められ、1922年英国の委任統治が正式に始まりました。 アラブ人、ユダヤ人は共に、それぞれの約束を盾に、独立国家建設を主張します。その後、皆さんよくご存知の、第二次 世界大戦時のホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)はユダヤコミュニテイーに一大打撃を与えます。ユダヤに 同情的な欧米の世論を背景にユダヤ問題解決はパレスチナにユダヤ国家を作るしかないという一大キャンペーンが展開 されます。

 一方アラブ人の立場に立てば、ユダヤ人問題、ホロコーストの問題はあくまでも、ヨーロッパの問題でパレスチナの 自分達の将来の問題とは関係なかったのでした。なによりも、英国との約束に従いアラブ人の國をパレスチナに建設する ことを望んだのでした。

 現在、パレスチナのテロに苦しむユダヤ人ですが、当時英国政府機関に対して激しいテロ攻撃を繰り返すユダヤ人も いました。パレスチナへのユダヤ人移民の数を制限しょうとした英国政府の対応に反対していたのでした。アラブ人と ユダヤ人は各地で衝突をくりかえし、その対立がますます激しくなっていったのです。

 ついに、1947年2月英国はパレスチナ問題解決を国連に委ねると宣言。事実上のパレスチナ放棄でした。英国から 問題を引き継いだ国連は同年11月国連総会においてパレスチナ分割案を可決します。パレスチナをアラブ、ユダヤの 2つの國に分割、エルサレムを国際管理下に置くという内容です。シオニスト(パレスチナにユダヤ国家を建設しよう という考えの人)にとって、この分割案は大勝利でした。国際機間がパレスチナのユダヤ国家建設を決議したのですから。
 一方アラブ側はこの決議に強く反発します。結果として、本格的な武力衝突に突入するのでした。

 現在のパレスチナ問題を考える上で、イスラエルを支持する人のほとんどは次のように主張します。『もし、この時点、 つまり1947年の時点でアラブ側がこの国連分割案を受け入れていれば2つの民族はパレスチナで共存できていたし、 当然パレスチナ国家も建設されていたであろうし、現在の紛争、難民問題もおこっていなかったであろう』
 はたしてこの時点でアラブ側がこの分割案に同意出来たかどうかは解りませんが、事実は、アラブはこの分割案に同意 せず、これ以後、アラブ、イスラエルは四度の大きな戦争を含め、多くの衝突を経験し現代もその問題を解決出来ずに 今日に至っています。

 
 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その6)主任研究員 矢野裕巳

「イスラエルの建国とパレスチナ難民」

 1948年5月14日国連分割決議をもとに、イスラエルの独立が宣言されました。残念な事に、新しい国の誕生は 新しい戦争の始まりとなったのでした。

  (写真)嘆きの壁 筆者撮影

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 19世紀の後半に始まるユダヤ人のパレスチナ移住開始以来ユダヤ人、パレスチナ人の衝突はいたるところでは 起っていたのです。
 しかしこのイスラエル建国を機に、本格的に、また、ちょっと変な表現ですが、正式に、 周辺アラブの国々が新しい国家であるイスラエルに戦争を始めました。周辺のアラブの国々とは、シリア、レバノン、トランスヨルダン、エジプト、イラクです。このアラブ5ヵ国はイスラエルが独立宣言をおこなった5月14日のうちに宣戦布告しました。アラブ陣営は兵員数、武器、装備の点でユダヤ側を大きく上回っており、いったん戦闘が開始 されれば、アラブ側の圧勝に終わると考えていました。

 ところが、初戦で苦しんだものの最終的には、イスラエルは国連分割案でユダヤ人に与えられた土地を上回る領土を獲得することになりました。これは、全パレスチナ国土の3分の2を占めています。アラブ陣営から考えれば、停戦条約で決められた分割線は、この戦争の停戦時における停戦ラインに過ぎず、暫定的な線をイスラエルの恒久的な 国境と認められないと主張しています。

 これにより、新生イスラエル国は、周辺アラブの国々との間に国境が現実に制定されていないという問題が残りました。 イスラエルはこの戦争を『独立戦争』と呼び、パレスチナ人は『パレスチナ戦争』と呼びますが、一般には『第一次 中東戦争』といわれます。  第一次中東戦争が生み出した問題点は『国境』の問題に加えて『難民の処遇』でした。戦争の惨禍から逃れるため周辺のアラブ諸国に避難していたパレスチナ人の帰還はイスラエルによって拒否されました。これにより、60万とも 70万ともいわれるパレスチナ難民が発生しました。
 パレスチナ難民問題は、中東和平プロセスの中でも、核心部分なので、アラブ、イスラエル両陣営とも全くちがった主張をくり返してきています。もともとの発生原因についてもアラブ側は、イスラエル軍がパレスチナ住民を強制的に追い立て、難民にしたと主張。イスラエルによると、戦争中アラブ陣営がパレスチナ人に脱出するよう呼び掛けたという事です。アラブ軍がイスラエルを攻撃するのでその邪魔にならないようにと。そして、アラブの勝利の後に 戻るように、説得したというのです。
 いずれにせよユダヤ人の国家建設という長年の夢が実現する一方、故郷を失うというパレスチナ人の苦難が始まりました。  

 この事は、それ以後、半世紀以上たってなお解決に至らない長い長い闘争の歴史の始まりにすぎなかったのです。

誰にでもわかるパレスチナ問題(その7)主任研究員 矢野裕巳

「アラブ民族主義の台頭、そして英仏植民地主義の終焉へ」

 新生イスラエルに対するアラブ連合軍の敗退はアラブの若者に大衝撃をあたえました。
 アラブの中心国家エジプトでは、王政の腐敗を指摘するナセルらエジプト若手将校の『自由将校団』がクーデターを起こし、 1952年エジプト王制を崩壊させました。

 ナセルは2つの大きな政策を掲げました。スエズ運河国有化とアスワンハイダムの建設でした。
 はたして、1956年7月ナセルはスエズ運河国有化を宣言するのです。運河の通行料をダム建設にまわそうと考えたのでした。 この事が引き金となり、第2次中東戦争(スエズ動乱)が勃発しました。

 当時運河を実質支配していた英国はフランス、イスラエルを誘い出し、軍事介入によってナセル政権打倒を企てます。 フランスは当時アルジェリア独立運動に苦慮しており、アラブナショナリズムの中核であるナセルを倒すことにより独立勢力 を衰退させようと考えていたようです。

 イスラエルはエジプトがソビエトからの武器援助で力をつける前に叩きたいと思っていました。英国のシナリオによれば、 まず、イスラエルがシナイ半島に進撃、スエズ運河の手前まで進む、そこで英国はフランスとともに、あたかも仲介役である かのように登場するのです。紛争から運河を守る名目で運河地帯を占領、この期をとらえてナセル政権を潰そうというのです。

 1956年10月29日、英国のシナリオ通り、イスラエル軍は運河地帯をめざし進撃。まさに英国、フランスが運河地帯に介入 したところで、思わぬ『待った』がかかりました。米国、ソビエトが、共にこの侵略行為の停止と撤兵を強く求めたのでした。 エジプトを支持するソビエトの反発は当初から予想されたものの、米国からの激しい非難に対し英仏両国は即座に撤退せざるを 得なかったのでした。

 では、どうして英国は米国の反応を完全に読み違えたのでしょうか?

 まず、イスラエルを誘い出し、攻撃の開始期日を10月の末に選んだ。なぜでしょうか?11月初旬米国では大統領選挙を控えて いて、この大統領選挙を考えればアイゼンハワー大統領もイスラエル参加の軍事行動にそう強く非難出来ないであろうとタカを くくっていました。英国は当時のアイゼンハワー大統領の現職としての人気を読み違えたようであります。ユダヤ票をあてにし なくても十分当選できたのです。

 さらに、この年1956年ハンガリーで民衆の反ソ運動が高まっていて、ソ連は武力でこの暴動を 押さえていたのでした。米国はどうしてもこの時期世界の目をハンガリーに集め、そのことでソビエトを牽制しようとしていた のでした。

 ちょうどその矢先スエズで戦争が始まりました。世界の目が中東に注がれるに乗じてソ連は兵力を首都ブタベストに突入させ反乱 を鎮圧させました。アイゼンハワーの逆鱗は三国、とりわけ英国に向けらたのでした。

 この戦争によりイスラエルは中東での軍事大国の地位を固めはじめ、エジプトは戦争には敗れましたが、スエズ運河という国家的 財産を英仏から守るという政治的勝利を勝ち取りました。対照的に英仏両国の国際的威信は大きく低下しました。とりわけ武力に よる運河奪回作戦失敗はアラブ諸国への影響力を失わせる結果となったのでした。

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その8)主任研究員 矢野裕巳

「PLO(パレスチナ解放機構)設立と6日戦争」

 第2次中東戦争(1956年)のあと、1967年前後まで、イスラエル、アラブ諸国の国境付近での衝突はあった もののこの地域にしては、比較的大きな事件から遠ざかっていました。軍事的には、イスラエルとアラブ諸国の 力の差が大きく開いた時期です。イスラエルは強力な米国の援助のもと対アラブ戦略が國を挙げて練り上げられ、 防衛体制が確立していきました。これに対してアラブ諸国は対イスラエル戦略の具体的充実も見られず、結果 として1967年の第3次中東戦争(6日戦争)へ突入することになるわけです。

 1963年、イスラエルがヨルダン川の水を一方的にネゲブ砂漠にひく事を決定しました。この計画に反対する為、 エジプトのナセル大統領は1964年カイロで第1回アラブ首脳会議を招集、イスラエルの水計画に対する反対と共に PLO (パレスチナ解放機構)の設立を決定します。ナセルはパレスチナ支援の為PLOを設立したのではありませんで した。第2次中東戦争でイスラエル軍の力を見たナセルはイスラエルとの武力衝突を避けたかったのです。そして、 パレスチナ人が自分の承認なしに独自で過激な行動をとらないようにしたかったのです。その為、穏健派で自分の 意のままに動かせるアーメッド・シュケリ氏を総裁とするPLOの設立を決定しました。

 イスラエル独立と共に難民となったパレスチナ人は、自分達がアラブ同胞から決して歓迎されない存在であること に気づき初めます。とりわけ若い世代は、イスラエルに対する旧来のパレスチナリーダーがいかに無力であるかを 強く意識します。
こうした中 PLO とは別のところでパレスチナゲリラの組織が活動を始めます。カイロ大学で学んだパレスチナ人の 若者が集まり、ヤセルアラファトを中心にファタハが結成され1965年から対イスラエル武装闘争を開始します。 ファタハの主張は次のとおりです。

1、パレスチナは自分たちの手で解放する。
2、しかし軍事的に、自分達が正攻法でイスラエルに対抗するのは無理である。
3、自分達の行うゲリラ活動でイスラエルを挑発、アラブ諸国を巻き込んで対イスラエル全面戦争に持ち込む。

 はたして、アラファトのシナリオどおり、ゲリラ攻撃、イスラエルの報復が繰り返され、1966年から1967年まで イスラエルとアラブ諸国の緊張が再び高まっていきました。まもなくエジプトは、イスラエルに対しアカバ湾と紅海 を結ぶチラン海峡の封鎖を宣言。当時スエズ運河の通行を拒否されていたイスラエルにとって戦争行為そのものでした。
 一触即発にありながら、この時点においてもアラブ側はイスラエルの行動を読み取る事が出来ませんでした。

 1967年6月5日に、イスラエルの先制攻撃ではじまった第3次中東戦争はわずか6日で停戦。
イスラエルはヨルダンからエルサレム旧市街地を含むヨルダン側西岸、エジプトからシナイ半島、ガザを、シリア からはゴラン高原をそれぞれ占領しました。たった6日間でイスラエルの支配地は四倍以上に膨れあがりました。
この戦争での戦死者はイスラエル730人に対してエジプト、シリア、ヨルダンで15000人でした。
アラファトらのパレスチナゲリラが望んだイスラエル、アラブの全面戦争は実現しましたが、その結果は、あまりにも 一方的なイスラエルの勝利とイスラエルの占領地拡大に終わりました。

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その9)主任研究員 矢野裕巳

「第4次中東戦争」

 第3次中東戦争の圧倒的大勝利を受け、イスラエルは占領地変換を条件にアラブ側が平和交渉に応じてくると信じて いました。しかし、1967年8月スーダンでのアラブ主脳会議の『アラブの三つのノー』でその予測は裏切られる事に なります。

 『アラブの三つのノー』とは、イスラエルとは『講和せず、交渉せず、承認せず』という原則の採択でした。
当時世界でイスラエルの華々しい電撃作戦が報じられ、たった1国を相手に大敗北を喫したアラブの弱さが大きく 報じられました。その敗北者としてイスラエルとの平和交渉の席につくことは堪え難い屈辱だったのでした。まさに アラブの面子(メンツ)です。

 ナセルの後継者であるアンワル、サダトはこの時、いつの日かイスラエルに1矢を報いる事を誓うのです。そうする 事により少なくとも対等の立場でイスラエルとの交渉の席につこうと考えていたのでした。その機会が1973年10月 にやってくるのです。イスラエルは1967年の第3次中東戦争で完敗したアラブ諸国が再度挑戦してくるとは思って いませんでした。

 第4次中東戦争はアラブの奇襲攻撃で緒戦はイスラエルが敗北します。徐々にイスラエル軍が反撃しますが、それでも イスラエル国防軍初の敗戦を経験したと言えるでしょう。イスラエル軍不敗神話がこの時崩れました。
サダトはこの第4次中東戦争緒戦の大勝利をテコにイスラエルとの和平問題を解決しようとします。サダト自身、 この戦争を『戦争による平和の遂行』としてとらえ、イスラエルとの和平の出発点としたのでした。

 緒戦の敗北のあと、米国に対するイスラエルの緊急軍事援助要請に、当時の国務長官ヘンリーキッシンジャーは意図的 に遅らせた節がみられるのです。キッシンジャーはその回顧録でもしイスラエルが再度勝利すればアラブ側はその面子 から和平を拒否するであろう。アラブ側にある程度軍事面で花をもたせることが中東和平への道だと考えたというのです。


 偶然なのかどうかキッシンジャーとサダトの意図は一致していました。
 第4次中東戦争ではアラブ側は石油を戦略のなかに取り入れます。石油価格の引き上げにより日本や西側石油消費国の ダメージは大きなものでした。

 
 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その10)主任研究員 矢野裕巳

「キャンプデ-ビッド合意」

 1977年11月エジブトのサダト大統領は、エルサレムを訪問。クネセット(イスラエル議会)で演説をおこない イスラエル国民から熱烈な歓迎を受けました。過去4度の大きな戦争の相手、イスラエルにとって宿敵である エジプト大統領のイスラエル訪問はあまりに衝撃的であり突然でした。

 当時ロンドンで学生生活を送っていた筆者 も26年前学生寮のテレビ室でサダト大統領の演説をライブで見ていました。中東からの留学生が興奮してこの話題 を語るのを聞きながら、当時の私はこれは大変な事なんだなあと思ったぐらいでした。
 突然に思えたサダトの訪問も、 当然これは水面下の交渉の結果でした。モロッコが重要なパイプ役を果たしたのでした。 モロッコはアラブの國ですが、イスラエル建国後もユダヤコミニティの生活を認めていました。アラブ世界からの 大反発を覚悟でのサダトの決断は次のような理由からでしょう。

1、戦力的にみて、イスラエルはアラブ側より強力であり、軍事力でイスラエルを抹殺することは不可能と判断する。 特にイスラエルは1960年代より核兵器を保有しており、追い詰められれば、國の破滅より核の使用を選択するのは 確実である、と判断した。

2、イスラエルに対抗する為、国民にこれ以上の負担はかけられない。アラブの大義を旗印にイスラエルと数回に わたって戦争をしたが、死者、負傷者の大半はエジプト人であった。前任者ナセルのアラブの大義に対して、 サダトはエジプト第一主義を決定した。エジプト経済の悪化という現実問題からもこれ以上の衝突は避けなければな らなかった。

 このサダトのイスラエル訪問の翌年、1978年米国大統領の仲介で2週間の合宿形式の首脳会談がおこなわれました。
 これもまた世界をあっといわせました。3国のリーダーが泊まり込みで、しかも2週間にわたり会談するというのは チョット考えられない出来事でした。
 1978年9月5日から18日まで、米国メリーランド州の大統領山荘キャンプ、デービッドで、カ-タ-米国大統領、 サダトエジプト大統領、ベギンイスラエル首相の三者会談でした。会談13日目の9月17日合意が成立、三首脳に よって調印されました。合意文書は基本的に2つの部分から成っていました。

1、エジプト、イスラエル間の平和条約を求める。これによって両国関係の正常化を達成する。
2、パレスチナ人の自治に関して、イスラエルはパレスチナ人の自治について交渉することを約束する。

 1の合意に基づき、翌年1979年イスラエル、エジプト間に平和条約が締結。イスラエルはシナイ半島返還を約束し、1982年4月完全撤退を完了した。
 2の合意に関して、約束どおりイスラエルは交渉を始めたが、自治を与える事は約束していなかった。
結果として、イスラエル、エジプト両国間の単独和平は達成されましたが、パレスチナ人の自治獲得にはまだまだ 遠い道のりでした。

 1981年10月6日サダト大統領は暗殺されます。イスラエルとの和平に反対するイスラム原理主義者の犯行でした。

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その11)主任研究員 矢野裕巳

「インティファーダー(民衆蜂起)」

 エジプトとの和平成立によりイスラエルは、シリア、エジプトと二正面から戦う必要がなくなりました。 エジプト抜きのアラブ陣営とイスラエルの間にはイスラエルの圧倒的な軍事力の優越さゆえ、もはやアラブ陣営は 力でイスラエルに対抗することは出来なくなりました。この極端な軍事的不均衡の中、イスラエルがレバノン戦争 を引き起こします。この戦争は、あくまでもイスラエル側からの見地ですが、他の4度の戦争とは違っていました。
4度の戦争はイスラエルの生存をかけた戦争でしたが、レバノン戦争はベギン首相のいう『選択による戦争』で、 建国以来はじめて兵役拒否がでた戦争といわれています。
 レバノン戦争はイスラエルのレバノンに対する戦争ではなく、ヨルダンからレバノンへ亡命した PLO(パレスチナ 解放機構)に対する攻撃でした。

 当時 PLO はレバノンの首都ベイルートが本拠地でしたが、このPLO の存在がイスラエル北部の安全を脅かすという ことで、1982年6月イスラエル軍はレバノン国境を超えるのです。イスラエルの真の目的は今も占領が続くガサ、 ヨルダン川西岸のパレスチナ人の民族主義のよりどころである PLOを破壊し、占領地の支配を確実にしょうとする ものでした。1ヶ月以上もベイルートを包囲し、砲撃を続け、多数の民間人の犠牲を出しました。

 この力による攻撃に対抗して、パレスチナ住民のインティファーダー(民衆蜂起)が激しさを増してきます。
レバノン戦争で敗れたPLOは本部をチエニジアに移さなければならなくなりました。占領地に住む人たちはアラブ 諸国や PLOゲリラが自分達を解放してくれるとは思わなくなり、ついに占領下のパレスチナ人たちが立ち上がること になります。1987年12月8日ガザにおいて、パレスチナ人の車にイスラエル軍のトレーラーが衝突し、パレスチナ人 4人が死亡、7人が重症。この事がきっかけとなりイスラエル軍とパレスチナ人との衝突が激化。2日後、ヨルダン川 西岸の町ナブルスでの大きな衝突で、一人のパレスチナ少女が射殺される。そして、衝突は全紛争地に広がり子供達も イスラエル軍に石を投げて対抗し始め、パレスチナ人の中におびただしい数の犠牲者を出します。

 後にノーベル平和賞を受賞するイツハック、ラビン氏は当時の国防大臣で、そのインティファーダー対策として、 全イスラエル兵に『石を投げる者の手足を折れ』と厳命しました。イスラエルの強硬姿勢にもかかわらず、完全武装 したイスラエル兵士に立ち向かうパレスチナの子供達、女性の数は増える一方でした。
 イスラエルの占領に反対するパレスチナ人の抵抗運動はますます激しくなり泥沼に入りこんでいきました。

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その12)主任研究員 矢野裕巳

「湾岸戦争とパレスチナリンケ-ジ」

 パレスチナ人の投石に対しイスラエルは逮捕、拷問、家屋の破壊をおこないました。1987年だけでパレスチナ人 25000人が逮捕、400人が死亡、5000人以上が負傷しました。 それでも抵抗の火は消える事なく、イスラエルの占領政策を苦しめます。パレスチナ人の石による抵抗以上に イスラエルを追い込んだのは、世界のメディアでした。
犠牲者がいくら出ても石だけで、完全武装したイスラエル兵士に立ちむかうパレスチナ人の映像が世界中で報道 されました。占領地の住民を弾圧し続けるイスラエル。その占領に断固として抵抗する勇敢なパレスチナ人。 すべての人がそう感じたわけではありませんが、パレスチナ人の民族自決を拒絶する占領者であり弾圧者という イスラエルのイメージを世界の一部に与えた事は確かでした。

 インティファーダーが始まって以来のマスコミ攻撃からイスラエルを救ったのは皮肉にもイラクのサダム・フセイン 大統領でした。
 湾岸戦争によってマスコミの注意が占領地からそれたのでした。
 1990年8月2日、イラクは、クウェートが歴史的にイラク領であると主張して、クウェートに侵攻。ペルシャ湾岸 でのこの戦争は当初イスラエルとは無関係であると考えられていました。ところが、クウェ-ト侵攻への欧米の対決 姿勢に対してサダム・フセインはパレスチナ問題を持ち出してきました。国際世論はクウェートからの撤退を求めた 国連決議を守るようイラクに圧力をかけました。これに対してイラクは、イスラエルの占領地撤退を求めた国連決議を なぜイスラエルに要求しないのかと主張。
 これは『パレスチナリンケージ』と呼ばれ、あたかもパレスチナ問題解決のためイラクはクウェートを占領したかの ような議論を繰り広げていきました。

 しかし、8月2日の侵攻直前までのイラクの対クウェ-ト交渉でパレスチナ問題を一言も述べてない点を考えても サダム・フセインがパレスチナ問題を真剣に考えていたとは考えられません。反イラク勢力の分団を計るため、 どうしてもイスラエルを戦争に引きずり込みたかったのでした。国際社会の大半はこのイラクの主張は問題の摺り 替えとして、受け入れず、イラクの無条件撤退をもとめ、結果として、1991年1月湾岸戦争突入となりました。

 ただパレスチナ人の間ではフセインの人気は高かったのです。1967年(第3次中東戦争)のアラブの大敗北後も イスラエルに対して強い態度でのぞむフセインに対して親近感を抱いていたのかもしれません。
目先の『反イスラエル』との文言に惑わされたアラファトはイラクのクウェ-ト侵攻直後バグダッド入りします。 この時アラファトとフセインが親密に抱き合う映像が世界のメディアに放映され、PLOのイラク支持が鮮明になり ました。戦後、それまでPLOに好意的だったサウジアラビアや湾岸諸国からの援助は打ち切られ、またPLO の主要 財源であったクウェートのパレスチナ人からの税収も完全にストップしてしまいます。
アラファトの政治的決断の誤りが招いた結果だといえるでしょう。

 一方、イスラエルは執拗なイラクの挑発に乗ることなく、イラクからイスラエルに打ちこまれたミサイル39発にも 報復を自重します。結果、戦後アメリカから膨大な援助が引き出されます。 アメリカは、開戦前にはイラクの『パレスチナリンケージ』を別問題としていたのですが、湾岸戦争後この問題解決を 目指し、アメリカを中心として中東和平国際会議の実現へと動き始めます。

誰にでもわかるパレスチナ問題(その13)主任研究員 矢野裕巳

「オスロ合意からラビン首相暗殺まで」

 湾岸戦争が終わるや米国は中東におけるパレスチナ問題解決のため、国際的中東和平会議開催に向けて政治工作を 始めました。イスラエルとパレスチナの問題を放置すれば、第2のサダムフセインが現れ、自国の利益のため、 この紛争を利用して対外的に侵略する集団が現れる事を懸念したのでした。現実に湾岸戦争後、今日に至るまで 事あるごとに米国の中東政策『ダブルスタンダーyド』はアラブの強い批判の対象になっています。米国の『ダブル スタンダード』とは、米国はイスラエルの国連決議無視の態度には目をつぶり、アラブに対しては国連決議の遵守を 強く迫り、武力行使も辞さないという矛盾点です。

 湾岸戦争終結から8ヶ月後、米国の強い働きかけで1991年10月30日から3日間、中東和平会談がスペインの首都 マドリードで開かれました。米国とソ連が共同開催国となり、イスラエルとパレスチナ代表による話し合いが始まり ました。
 しかし、イスラエルが PLO幹部の出席を拒否したためパレスチナ代表はPLOのアラファトではありませんでした。 実質問題の解決という意味では、実りのない会議でしたが、かつて一度も交渉の同じテーブルについたことがなかった アラブとイスラエルの代表が一つの会議場で初めて中東和平を話し合ったことは画期的な出来事でした。 その後イスラエルでは労働党か政権をとります。ラビン首相は、パレスチナ人の信頼を集めるPLOを拒否していては、 問題解決は出来ないと判断し、ノルウェーのホルスト外相の粘り強い仲介を受けて非公式にPLOと交渉を続けます。

 1993年9月13日ラビンとアラファトはワシントンDC を訪れ『パレスチナ暫定自治協定』に署名し固い握手をかわし ます。オスロでの事前交渉から『オスロ協定』『オスロ合意』と呼ばれています。イスラエルとパレスチナの代表が 正式文書に署名することはそれまでの常識では考えられない事でした。

 オスロ合意から半年後1994年5月4日ラビンとアラファトはカイロでパレスチナ自治協定に調印、パレスチナ暫定自治は その実現にむけて進み出しました。

 1995年9月28日ワシントン DCで『パレスチナ自治拡大協定』いわゆる『オスロ、ツー』が調印され、特にイスラエル 政府はパレスチナ人との共存を望む姿勢を鮮明にしました。急速に進むパレスチナ和平に反対する勢力は、イスラエル側 にもパレスチナ側にもいて、イスラエル国内の右派勢力、パレスチナの過激派がそうでした。

 1995年11月4日イスラエル首相イツハック、ラビンはテルアビブで開かれれていた平和集会で狂信的ユダヤ人によって 暗殺されます。
 これ以後平和プロセスは急速に衰えていくことになるのでした。

 
 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その14)主任研究員 矢野裕巳

「イスラエル極右勢力とパレスチナ過激派」

 前回にも述べたように、オスロ合意以降、急速に進むパレスチナ和平に対して反対す る勢力は、イスラエル側、パレスチナ側にも大きく表れます。
ユダヤ人がユダヤ人を殺 害したという事実。平和促進派の指導者であり現職のラビン首相を失ったという悲しみ に加えて、パレスチナとの共存を望むユダヤ人に大きなショックを与えました。

 マイケ ル・ライナー博士(大本で一年間滞在したルース嬢のお父さんで、2000年の綾部、 エルサレム友好宣言調印実現の協力者)は当時を振り返り、『あんな悲しい事はなかっ た。幾度もアラブと戦火を交え、初めてこの地に平和が訪れるという希望が粉々になり ました。暗殺の後、私は生まれて初めて神の存在に疑問を覚え、しばらくはシナゴーグ (ユダヤ教礼拝堂)に背をむけていました。』と筆者に語ってくれました。

 筆者の友人の中にも、1995年11月4日の夜、和平推進派のテルアビブ平和集会で、 『平和の歌』を歌い終えた直後、和平反対派青年のピストルの弾がラビン首相の 心臓と『平和の歌』の歌詞カードをつらぬいた場面を目撃した人が数人います。彼等もま た、ライナー博士と同じように当時の絶望感を語ってくれました。

 はたして、ラビン首相暗殺犯イガール・アミールはどのような人物で、どのような考えで 暗殺におよんだのでしょうか?
 アミールに代表されるイスラエル極右勢力の考えは 次のようなものです。
『カナン、つまりパレスチナは神がユダヤ人に与えられた約束の 地である。だからこの地をすべてユダヤ化する事は神の意志にかなうものである。』 このような考えを持つ彼らには、パレスチナ人との共存を前提に、ガザだけでなく、 ヨルダン川西岸のエリコにパレスチナ自治権を与えようとするラビン首相の考えを受け 入れる事は到底できないことでした。

 ラビン首相暗殺に続き、和平推進ムードを大きく揺るがす事件が今度はパレスチナ過激派 によって引き起こされました。1996年2月5日から1週間の間にテルアビブ 、 エルサレムを中心に数回、対ユダヤ人自爆テロが起り60名以上の死亡者が出ました。 連続自爆テロを引き起こしたパレスチナ過激派はパレスチナ全土からのイスラエルの撤退を 要求しています。

 イスラエル極右勢力とパレスチナ過激派。共に和平反対勢力であり、実際に彼らの思惑どおり、 2つの民族の共存への道は遠のいていきました。
1996年5月29日に行われたイスラエル総選挙において、リクード党党首ベンヤミン・ネタニヤフが 政権を取りました。無差別テロからの治安回復を旗印に政権奪取しましたが、ネタニアフ首相は オスロ合意に反する政策を進め、パレスチナとの和平プロセスは大きく後退していくのです。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その15)主任研究員 矢野裕巳

「ユダヤ人が2人いれば政党が3つできる」

 イスラエルは2大政党であるリクードと労働党、その他多数の政党が群立し、いずれ の政党も過半数の議席を獲得できず、つねに連立内閣で政府は成り立っています。 ユダヤ人の自己主張の強さを説明する時、『ユダヤ人が2人いれば3つの考えが存在 する』や『ユダヤ人が2人いれば3つの政党が成立する』という比喩がよくつかわれ ます。

 私自身の体験から卑近な例を示せば、数年前テルアビブでイスラエル人と日本人のグ ループでお茶を飲みに行きました。15名程で日本人は私をいれて4~5名でした。 ウエイターが注文を取りに来ました。10名程のイスラエル人はほとんどが、違った ものを注文していました。翻って、日本人のグループは注文する前に、となりの日本 人に『何にする?』と聞き、『そしたら私もそれにする』というような会話があり、 全員が同じものを注文しました。海外での事なので日本国内では多少事情が違うかも しれませんが、日本でもよく聞かれる会話ではないでしょうか?このエピソードがユ ダヤ人の自己主張の強さを示す好例とは思いませんが、自分の欲しいもの注文するの に他人の意見に傾ける態度を理解する事は彼等には出来ないでしょう。

 1996年5月リクード党からベンジャミン・ネタニヤフが首相に当選しました。 2大政党の1つリクード党はパレスチナ人の領土獲得の欲望をできるだけ押さえ込み、 ヨルダン川西岸をイスラエルが完全に支配しその元でパレスチナ人に自治を認めると いう基本姿勢をもっています。もう一方の労働党はユダヤ国家とパレスチナ人の地域 を分離し、パレスチナとの和平によって共存を実現しようとする考えです。 別の言い方をすれば、労働党は『土地と平和の交換』つまり1967年の第3次中東 戦争で占領した土地から撤退し、アラブのイスラエル承認を勝ち取るという政策です。 対するリクードから当選したネタネヤフ首相は 『平和と平和の交換』を提唱。イス ラエルは占領地からの撤退は行なわないが、アラブ側はイスラエルを承認、平和条約 を結ぶというものです。

 対パレスチナに対する安全保障の基本的なアプローチの違いであって、単純に、労働 党が平和の政党でリクード党はそうではないとは言い切れません。実際に自国の安全 が脅かされた時には群立する小政党を含め2大政党も一致団結して実力行使、多くの 場合先制攻撃によって防御するというのが、イスラエル政府の方針です。

 ただ、ネタニヤフ首相の『平和と平和の交換』では、対アラブ和平プロセスが進展す る事はありませんでした。ネタネヤフ首相に関する未公開のエピソードを1つ紹介し ます。

 1976年、エールフランス旅客機がパレスチナゲリラにハイジャクされ、ゲリラは ユダヤ人以外を解放し、アフリカのウガンダエンテビ空港へ着陸。ゲリラの要求はイ スラエルの収監されているパレスチナ政治犯の釈放でした。訓練を重ねたイスラエル 特殊部隊の働きでゲリラ全員を射殺。この事件は後にエンテベの奇跡としてハリウッ ドで映画化されました。この快挙のなか救出部隊にただ1人の犠牲者がありました。 ゲリラ側の弾丸に倒れたのは、隊長であるヨナタン、ネタニエフ氏、ネタネヤフ首相 の実弟でありました。

 前回にも紹介したマイケル・ライナー博士とベンジャミン・ネタニエフ首相は米国留 学時代からの大の仲良しで、日本流にいう御神酒徳利(いつも一緒にいる仲のよい2 人)でした。共にイスラエルの将来を背負う雄弁家として知られていました。

 特殊部隊がイスラエルに凱旋帰国し、国民に大喝采の中迎えられた夜、マイケル青年 は、悲しみに涙するベンジャミンに1つの提案をします。当時はまだ独身であったマ イケル青年は将来自分が結婚して男の子が生まれたらヨナタン(ジョナサン)という 名前をつけ、家族のようにつきあう事を約束したのでした。その約束通り、結婚し、 長男が誕生すると、迷う事なくヨナタンと命名、そのヨナタンは幼児の時からネタニ ヤフ首相と文通を続けたのでした。労働党支持で、和平推進派の中心であるライネル 家は現在ではネタニヤフ家との関係は疎遠になっていますが、エンテベの栄光の陰に このようなエピソードが存在した事も事実なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 そのヨナタンが27才となった今(写真上)でもパレスチナ問題は大きな課題としてさまざまな 紛争の火種となっています。

 
 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その16)主任研究員 矢野裕巳

「綾部市、エルサレム市友好都市宣言」

                                                 

 

 

                                                   (写真左)堅い握手を交わす綾部市長(当時)とイスラエル大使(当時)

 

 イスラエル、パレスチナ和平交渉は1996年に始まるネタニヤフ政権の3年間、遅々として進みませんでした。

 1999年5月の総選挙で労働党エフード・パラクが首相に就任すると、頓挫した和平の推進に積極的に動きます。 バラク首相はイスラエルで誰よりも多くの勲章を得た軍人として知られ、軍の最高位(参謀総長)から政界に転じました。 これは、故イツハック・ラビン首相と同様イスラエルの典型的な出世コースです。 選挙中から和平推進に積極姿勢を示していたエフード・バラク首相は、就任後直ちに米国へ飛びクリントン大統領と和平 協議。またアラファト議長、ムバラクエジプト大統領、ヨルダンのアブドラ国王といった中東和平へのキーパーソン達と 次々に会談し、和平推進の積極姿勢を内外に示しました。

 何度も名前が出てきますが、1999年9月2日から13日までマイケル・ライナー博士が天恩郷を初訪問。
 9月8日には『ユダヤ教は平和の宗教か』の特別講演を安生館5階でおこない、約70名が聴講しています。また、博士は この短い滞在中、国際部留学中の次女ルース嬢と共に、二度にわたり4代総裁に面会。9月5日と10日の両日で、共に 予定の時間を大幅に延長、2時間を超える面会となりました。
5日のご面会では、当時国際部長の出口真人氏(現大本大道場長)が、霊界物語のお示しを含め、エルサレムと綾部の 関係を話題にし、将来の綾部、エルサレム提携の可能性について言及しました。博士は、その可能性について具体的に 丁寧に返答されました。

 通訳として同席していた筆者は、当時の面会時における会話をすべて覚えているわけではありませんが、出口聖子4代 総裁が次のように発言された事は明白に記憶しています。
「今までに、綾部とエルサレムの姉妹都市の話は何回か聞いているけど、なかなかうまく行きませんね。 でも本当にこれが実現すれば2代様が一番喜ばれるでしょう。」

 

 

    

                                                    (写真)署名をする四方八洲男市長(当時)

 様々な双方の外交努力。またもちろん神様の大きなご守護のもと、翌2000年2月9日、綾部市 I Tビルで綾部市、エルサ レム市友好都市宣言署名式が実現しました。

 その署名式での祝辞で、4代総裁は 「綾部市は日本で世界連邦都市宣言をした第1号でございます。そしてエルサレム市と友好都市を結んだのも、 第1号でございます。私の祖母、出口すみ子2代総裁は世界連邦の運動に入って協力すれば世界は平和になる のではないかと、非常に喜んでいた事を、私は覚えております。そして、昭和25年ローマでの第1回会議に、 祖母は『私も行く』といっていたのでございます。まだそのころは、交通も不便で、食料も大変でございまし たが、味噌と梅干し、干飯(ほしいい)をもって行くんだと、張り切っておりました。」
と、述べ、次のように締めくくられました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                    (写真)出口聖子4代総裁の祝辞

 「祖母が生きておりましたらこのように綾部とエルサレムの友好都市宣言が出来た事、どんなに喜んだかなと、 私は一番先に祖母の事を思い出しました。」

 この祝辞を舞台のそでで聞きながら私は5ヶ月前のライネル博士の4代総裁とのご面会を思い出していました。


 

「エルサレムで『世界平和祈願祭』」

 

 エルサレムと綾部市が友好都市宣言が行われた2000年。7月22日から29日ま で総本部から『エルサレム平和使節団』が結成され、103名が、イスラエル、テ ルアビブ市で開催された『第85世界エスペラント大会』に参加しました。またハイ ファ市のティコティン日本美術館では『日本の夕べ』を開催し、多くの市民に日本文 化を紹介しました。

                                                   (写真)モルモン大学礼拝堂での「平和祈願祭祭典」

 また、エルサレム市では大本祭式による『世界平和祈願祭』を執 行。エルサレム旧市街が一望できるブリガム・ヤング大学(モルモン大学)講堂での祭典となりました。
 大本祭員に続いて、ユダヤ教指導者のデービド、ローゼン師、イスラム教指導者アブ ドル、ブカリ師、キリスト教指導者ウエイン、マイニア師が登壇、それぞれ玉串をさ さげました。
 三教の聖地であるエルサレムで、三教の指導者と大本からの参加者が共 に祈りを捧げた事は大きな意味があったと思われます。

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その17)主任研究員 矢野裕巳

「指導者の決断」

 『エルサレム平和使節団』がイスラエル滞在中、パレスチナ和平も大きな転換期を迎 えていました。大統領任期満了を半年後に控え、クリントン大統領はイスラエル首相 エフード、バラクとアラファトパレスチナ自治政府議長をメリーランド州のキャンプ、 デービッドに集め歴史的合意の達成をめざしていました。交渉は寝る間も惜しんで連 日、深夜まで続けられました。

 通訳として同席していた筆者は、当時の面会時における会話をすべて覚えているわけではありませんが、出口聖子4代 総裁が次のように発言された事は明白に記憶しています。
「今までに、綾部とエルサレムの姉妹都市の話は何回か聞いているけど、なかなかうまく行きませんね。 でも本当にこれが実現すれば2代様が一番喜ばれるでしょう。」

 

 

 

 

 


 

        

 

                                                   (写真)エルサレム旧市街

 旧市街と東エルサレムを含む全エルサレムはイスラエルの永遠の首都であるというの が、イスラエル政府の従来の主張でした。(1980年のエルサレム基本法)これに 対して、パラク首相はクリントン提案のエルサレム分割案を受け入れました。イスラ エルの首相として初めての受け入れでした。また、バラク首相は占領地の96%から の撤退も提案しており、右派勢力の反対を考えれば、極めて勇気ある決断でした。し かし、さらなる妥協を要求するパレスチナ側にとっては不十分な条件で、交渉は合意 は至りませんでした。ただ、大きく譲歩したバラク首相に対して、交渉妥結の落とし 所を見出せなかったアラファト議長の責任は大きいと思います。  

 クリントン大統領のパレスチナ和平合意仲介に関しては、その姿勢が批判の対象とな る事も多く、任期中に合意をとりつけノーベル平和賞をねらったと考える人もいます。 ただ、大きな事柄をなそうとする時は、必ず反対意見があるもので、パレスチナ問題 のような複雑な和平交渉に取り組んだクリントンの情熱は、やがて歴史が証明してく れるものと思います。

 和平交渉失敗からイスラエルはバラク首相に代わり、対パレスチナ強行派のシャロン 首相が新首相に。そして、その時になって初めてアラファトはクリントンの和平案を 受け入れることを表明したのです。もちろん、シャロン首相が受け入れる事はなく、 遅すぎた決断でした。クリントン案を受け入れていたら、バラク、アラファトは共に 同胞の原理主義者から大きな生命の危険にさらされ、暗殺されたかもしれません。そ の覚悟と勇気において、バラク首相とアラファト議長には少しの、温度差があったか もしれません。『パレスチナ人は機会を逃す機会を逃した事がない』とは、ちょっと 言い過ぎかも知れません。ただ、2004年11月11日、この世を去ったアラファ ト議長にとって、自分の目でパレスチナ国家樹立を確かめる最後の、そして最高の機 会であった事は確かでしょう。

 パレスチナ問題を語る上で、パレスチナ人が被害者、ユダヤ人が加害者という図式で その紛争を解説する人達がいます。しかし、現在のパレスチナが弱い立場に置かれて いるのは、過去の戦争の結果なのです。1947年の国連分割案を受け入れず、戦争をしかけたのは、 アラブ側であり、その結果によっては現在の立場は逆になっていたかも知れません。

 イスラエル建国時、時の国力を考えて決断を下し、将来の国民の為に譲歩するところ は譲歩する勇気をもっていたベングリオン首相のような、強いリーダーシップと先見 性、決断力のあるパレスチナ人の政治的指導者が和平推進には何よりも不可欠だと思 われます。

誰にでもわかるパレスチナ問題(その18)主任研究員 矢野裕巳

「神は死んだ。パレスチナ問題の複雑さに悩んで!」

 総本部からの『エルサレム平和使節団』が日本へ帰国してから2ヶ月後。 2000年9月、アリアクサ、インティファーダ(民衆蜂起)が勃発します。 バラク首相の和平交渉の行き詰まりにつけ込んだリクード党首アリエル・シャロン氏の行動が、 パレスチナに対する挑発行為の発端となります。 9月28日、エルサレム旧市街のハラム・アシャリフ (高貴な聖域、ユダヤ教では神殿の丘)に約1000名の護衛を引き連れ、 シャロン氏はイスラムの聖地へ足を踏み入れました。 ここには、アルアクサモスクと岩のドームがあります。 

 翌29日2万人以上のパレスチナ人が抗議行動を開始、 嘆きの壁にお参りに来ていたユダヤ教徒に投石を始めました。 死傷者数が増えていきましたが、ほとんどが、パレスチナ人でした。 ガザで12才のパレスチナ人、ムハメッドが父親の前でイスラエル兵に射殺される様子、 またイスラエル兵がパレスチナ群集にリンチで 殺害される様子等がそれぞれ世界のメディアで繰り返し報道されました。

 クリントン大統領は衝突が止まらないのを受けて、 両首脳と電話会談するなど、自ら介入に乗り出します。

 7月のキャンプデービッド決裂後も翌年1月の任期終了まで クリントン大統領は和平合意に努力します。クリントンは、 中東に関わりの深い国務省高官デニス・ロス氏を中東和平担当の大統領直属特使に任命し、 ひとたび問題が起ると『火消し役』として直 ちに派遣するのでした。

 2001年1月にクリントンを受け継いだブッシュ大統領は一転、 パレスチナ問題に距離を置きます。 パレスチナ問題解決を外交上の最優先課題と位置付けていたクリントンに対して、 ブッシュ政権は『パレスチナ問題は米国の国益を直接損なわない』と判断しました。 それよりもクリントン政権が手をつけなかったイラク問題に焦点を合わせてきたのです。

 1991年の湾岸戦争後、 パレスチナ和平の突破口となるマドリード会議を実現したベーカー元国務長官でさえ、 その回顧録のなかで、『国務長官に就任して以来実は私はパレスチナ問題には関与したくなかった。 アラブ、イスラエル紛争は、解決すべき課題というよりも、 避けるべき落とし穴と見なしていたのが、正直な気持ちである』と告白しています。

 哲学者ニーチェの『神は死んだ。パレスチナ問題の複雑さに悩んで死んだのだ』と いうジョークを聞いた事があります。もちろん、ニーチエはそんな事は言っていないでしょうが、 この問題がいかに複雑かを表していると思います。

 ブッシュ政権のパレスチナ問題への及び腰は 2001年9月の同時テロによって修正を余儀なくされる事になるのです。

 
 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その19)主任研究員 矢野裕巳

「9.11」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                               2001年9月11日15時頃、筆者撮影

 


 『どうやらこれは、パレスチナ過激派の仕業らしい』また『世界貿易センターに勤めるユダヤ人をターゲットにしたテロらしい』『 ニョーヨーク金融界を牛耳るユダヤ人排斥運動の始まりだろう』あるいは『いやいやこれはむしろユダヤ人自身が仕組んだテロである』 

 2001年9月11日、午前9時頃であったと記憶しています。セントラルパーク西81丁目、エクセルオールホテルのロビーでの宿泊客や従業員との会話である。根拠のないデマがマンハッタンを駆け巡っていました。

 9月13日の国連総会に先立つ各宗教代表者の祈りの集会に出席する出口眞人氏と共に私は通訳として9月10日の夜、ニューヨーク入りしていました。テロの直前まで私は、二人のユダヤ人と電話をしていました。同じようにニューヨーク入りしていたデービット・ローゼン師(ユダヤ教ラビ)とフィラディルフィアに滞在していた、マイケル・ライナー博士でした。それだけにロビーでの『ユダヤ人への攻撃』との会話は私にとってショッキングなものでした。

 実は日本を離れる5日前にジェームス・モートン ニューヨーク宗際センター所長からファックスが入り、9月11日に開催される、エルサレム問題の討論会と昼食会に大本からも出席して欲しいとの要請があり、予定を1日早めて9月10日に関西空港を出発していました。もし、予定を変更せず9月11日に出発していたら、困難な中で開催された13日のコフィ・アナン国連事務総長を迎えての祈りの集会に出席出来なかったでしょう。また、米国に入国する事なく、恐らくはカナダのどこかの空港で少なくても1週間は缶詰め状態になったと思われます。

 ほとんどの行事がキャンセルになる中で、9月13日、ミッドタウンにある聖バーソロミュー寺院で大本を含め15の宗派の祈りが捧げられました。イスラム教の代表者が祈りのなかで、今回のテロを強く非難、イスラムの教えに真っ向から相反する行動であると述べた時は500人をこえる参列者から大きな拍手がおこりました。

 最後に挨拶に立ったコフィー・アナン氏もテロに対する非難とともに、安易な報復に対する警告を発しました。暴力に対する暴力の報復は、真のテロ撲滅にはつながらないと繰り返しました。テロから2日後の米国の世論を考えればかなり勇気ある発言であったと思います。 

 航空チケットを変更する事なく、私達は9月16日午前9時のフライトでニューヨークを離れました。デトロイトを経由しテロ後、米国からの初めてのフライトで関西空港へ17日帰国しました。

 私にとって生涯忘れる事の出来ない8日間でした。テロ直後はしばらくは帰国出来ないかもしれないと考えたこともありましたが、丸4年たった今でも鮮明に覚えている事が2つあります。

 ラガーディア空港を離陸した直後、機内から今だグランドゼロから立ちこもる煙を満席の乗客すべてが見つめていた事。少なくとも私の席から見える範囲において全員が見つめていました。

 もう1つは、ラガーディアからデトロイトに到着するとすぐに銃をもった男女2名の兵士が機内に乗り込み私達の席の3,4席前のアラブ系の人物を連行した事でした。機内は凍りついたような雰囲気になりました。テロの犯人逮捕か? 私を含めて何人かはそう考えたに違いありません。後に米国は9.11後多くのアラブ系の人々を連行しその大半はテロとは何ら関係ない無実の人達でした。デトロイトでの人物もその中の一人であったのでしょう。

 冒頭でのユダヤ人へのデマ、同時多発テロ後のアラブ系民族への無知。パレスチナ紛争を含め多くの紛争は誤解と相手への恐怖からの偏見がその根本的要因として存在しているのではないでしょうか。

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その20)主任研究員 矢野裕巳

綾部市長の英断

 「来年、イスラエル、パレスチナの紛争遺児を綾部に呼ぶので、君にも手伝って欲し い。いずれ正式に大本に協力依頼をするので、その時は引き受けてくれ。」2002年11月上旬、四方八州男綾部市長から直接このような話がありました。

 綾部市がエルサレム市との友好都市宣言に調印して3年を記念する、具体的な取り組 みとして将来の和平の鍵をにぎる子供達を日本へ招待。イスラエル、パレスチナの子 供それぞれ7名、イスラエル、パレスチナそれぞれの付き添いや窓口となったシモン ペレス平和センターからの代表、イスラエルテレビの取材をふくめ総勢20名の団が 組まれ、2003年7月26日から8月1日まで綾部、東京を中心に日本に滞在しまし た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 イスラエル、パレスチナ双方の代表者を日本に招いて対話や交流の場を持つ試みは綾 部だけではありません。

ただ、次の点で綾部プロジェクトは大きな特長を持っていま した。

 1、綾部が招いたイスラエル、パレスチナ双方の子供達(14才~17才)は親か兄 弟姉妹また親戚の誰かが紛争で犠牲になっています。つまり、単にイスラエル、パレ スチナの成績優秀者をテストで選抜したのではありません。参加者はみんな何らかの 心の傷をもっており、その意味で、現地の窓口(ペレスセンターや大使館、外務省) にすべてを委託したのではなく、綾部実行委員会が現地に代表者を派遣し参加者を選 抜。また、子供を遠い日本に預ける事を心配する父兄に説明会としてオリエンテーショ ンを開催しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 2、それぞれイスラエル、パレスチナの子供達には日本滞在中、自分達とは違った日 本文化、異質な文化を体験してもらう。その体験から自分達とは違う考え、文化をも つ人々を理解する事を学んでもらおうとした事です。その事は将来のイスラエル、パ レスチナを背負って立つ彼等がそれぞれお互いを理解するための重要な資質となると 考えました。実際私自身もイスラエル、パレスチナ対話集会のようなものに何度が参 加した事がありますが、お互いがお互いの主張をくり返すのみで、相手の主張に耳を 傾けようとしません。

1週間彼等と行動を共にした7名の日本の子供達が、自分の考 えをはっきり述べる事を学び、そしてイスラエル、パレスチナの子供達が、相手の主 張にも耳を傾ける事を学んでくれたとしたならば、我々の意図は達成できた事になり ます。

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その21)主任研究員 矢野裕巳

「走りながら勉強を! 走りながら準備を!」


 平成15年1月28日、『中東に和平を!』地球市民綾部実行委員会が四方八洲男綾部市長を委員長として正式に立ち上がりました。それぞれが、役割を分担し、7月の行事に備えたのでした。
 私も国際問題担当として、テルアビブのペレス平和センターとのメールや電話での交渉の役をいただきました。ペレス平和センターは現地の窓口でした。また、マスコミ対策と外務省との打ち合わせ等、多忙な市長の外交スポークスマンとして仕事をさせていただきました。
 外務省や海外特派員協会には2月から7月にかけて10回以上訪問し、綾部の取り組みを説明して廻りました。仕事を始めるにあたり、市長からは次のような指示がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 



1.イスラエル、パレスチナのどちらかに加担するような印象を与えない事、綾部は決して政治的にどちらかのサイドを支持するスタンスをとらない。 

2.世界連邦都市宣言第1号として、綾部は地球市民レベルの交流を日本へそして世界へ広めて行く事の大切さを示したいと考えている事をしっかり伝えて欲しい。

3.良い事をするのだからできるだけマスコミに取り上げられるようにする。中東問題、特にパレスチナ問題には多くの日本人は疎遠である。

4.その意味でむしろ日本に駐在する世界の主な新聞の東京特派員に接触し、彼らの注目を得る事により、日本のマスコミを動かす事ができるかも知れない。

5.市民レベルのパレスチナ問題勉強会を開く、またできるだけ分かりやすい内容で基礎的な内容を理解出来るような小冊子のようなものをまとめる。

 最初からすべてうまくいったわけではありませんでした。イスラエル、パレスチナどちらにも肩入れしない印象を与える為には、当然両サイドの主張を理解しなければなりませんでした。お陰で当時は私の人生で記憶にないほど集中して勉強していました。

 日本を代表するパレスチナ問題の専門家との意見交換の場も経験しました。 実行委員のそれぞれが、自分の役目を果たそうとしました。真剣に取り組むあまり、意見の食い違いもあり、大変な時期もありました。
 ただ多少考えの違いがあったとしても綾部へイスラエル、パレスチナの子供達を招きたいという気持ちは一つであったと思います。2年以上たった今振り返って、素晴らしい経験をさせてもらったという気持ちで一杯です。

 当初あまり相手にしてくれなかった世界各国の東京特派員にもすこしづつ理解されはじめました。
まさに走りながら勉強し、走りながら準備した6ヶ月でした。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その22)主任研究員 矢野裕巳

「絶望はおろか者の結論」

                  ソンドス・スネナさんと小泉首相(当時)、そして筆者

 2003年7月26日午前10時15分、イスラエル、パレスチナの子供達それぞれ7名ずつ、また双方の付き添いや関係者を含め20名は無事、関西空港へ到着。最初の3日間は綾部に滞在。そして、そのうち2日間は綾部の一般家庭にホームステイしました。
 ホームステイではそれぞれイスラエル、パレスチナの子供1名ずつ受け入れてもらうようにしました。当初の受け入れ側の心配をよそに、後にイスラエル、パレスチナの子供達全員がそれぞれのもっとも印象に残る事の1つにこのホームステイ体験を真っ先にあげていました。

 29日の夜、京都からバスで東京に向かい、30日早朝大本東京本部に到着。東京本部で朝食をとった後、首相官邸で小泉純一郎首相と面談しました。
 首相は最初から子供達の目をしっかり見ながら、子供達の目線で話されました。
 『日本も60年前アメリカ、イギリスと戦争をしましたが、今は世界で1番の友好国になりました、けっして希望を捨てないで』と激励、参加者全員のそれぞれの自己紹介にも、真剣に耳を傾けられました。
 最後に、いったん面談室から出られた首相は、もう一度部屋に戻られ、『絶望はおろか者の結論、和解への希望を持ち続けて下さい』と、大きな声で英語と日本語で話されました。子供達の感激は私達にも大きく伝わってきました。


 

「日本で学んだ思いやりの精神」


 

 

 

 

 

 

 

                 成田空港での別れを惜しむ子供たち

 

 8月1日、成田空港から帰国した直後、今回の団長であり、ペレスセンター代表ニリッ ト・モスコビッチ女史から次のようなメールが届きました。

 『イスラエルのテルアビブ空港に到着した後、いつものようにイスラエル人はほぼフリーパスで税関を通過。パレスチナ人は長い税関検査。パレスチナの子供が検査を受けている間、イスラエルの子供達の家族はすでに迎えに来ていました。少しでも早く家族に会いたい気持ちを抑えながら最後のパレスチナの友人が検査を終えるまで3時間。 誰1人帰る事なく、全員14名で空港出口をあとにしました。
日本の方々には普通のように思われるかも知れませんが、これは大変な変化でした。日本で学んだ、思いやりの精神であると思われます。』

 

 

「将来は日本に留学を」

 また、8月3日には、パレスチナのソンドス・スネナさんのお母さんから電話がありました。
 『ソンドスは紛争で父親を失って以来、あまり笑顔を見せませんでした。今回綾部に招いて頂き、帰国後日本での体験を楽しそうに話してくれます。将来は、しっかり勉強して是非日本に留学したいと話しています。娘が嬉しそうに話す様子を見て、母親としてこれ以上嬉しい事はありません』と涙ながらに語ってくれました。


 

                     さよならパーティーで挨拶をする谷垣禎一国家公安委員長(当時)

 
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誰にでもわかるパレスチナ問題(その23)主任研究員 矢野裕巳

「分離壁そしてアラファトの死」

 2003年8月1日、成田空港で別れた綾部プロジェクト参加者との再会は2005 年4月11日、東エルサレムのアムバサドールホテルで実現します。

 この間、パレス チナ情勢は必ずしも平和への明るい方向ばかりではありません。イスラエルによる分離壁の建設とアラファト議長の死去について考えてみましょう。

                      ヨルダン川西岸の壁(写真左/2005年4月10日・筆者撮影)

 2002年6月、シャロン首相はヨルダン川西岸に『壁』の建設を指示しました。『壁』はイスラエルサイドからは『安全保障のためのフェンス』と位置づけられ、物 理的な障害を設ける事でパレスチナからのテロ行為を防止するとの見解で、始まりま した。

 パレスチナサイドからは、『アパルトヘイトウオール』であり、この壁により、 自分達が限られた居住区に押し込まれてしまうと恐れているのです。分離フェンスは 全長700キロにわたり計画され、ユダヤ人入植地をイスラエル側に取り組むため、 そのルートは西岸の内部に大きく食い込む形になっています。パレスチナ側の『治安 を口実に真のイスラエルのねらいは土地収奪が狙いである』という主張の根拠になっています。ユダヤ人入植地を取り囲むように建設された巨大なコンクリート壁によって自分達が住む家が村から切り離されたパレスチナ人の過酷な境遇を各国のメディアは世界に紹介しました。パレスチナ人はまさに分離壁によって生活基盤を分断されたのでした。

 『いくら、テロ防止という目的を掲げても、こんな策はやはり許されない』というのが、ヨルダン川西岸での分離フェンスに対する多くの人の感想ではないでしょうか。
 国連総会は2003年10月21日に『壁』の建設中止を求める決議を採択しました。 国際司法裁判所は翌年2004年7月9日、分離フェンスについて『国際法違反』と評決しイスラエル政府に対して壁の即時撤退とその建設で生じた損害を賠償するよう勧告を出しました。米国務省バウチャー報道官は同日、この国際司法裁判所判断を痛烈に批判、この勧告を法的拘束力がないと指摘したうえで、この問題を国際司法裁で扱うこと自体が不適切とコメント。和平を目指す当事者の努力を妨げるものであると批判を加えました。


 

「ヤセル・アラファト議長の功罪」


 2004年11月11日パレスチナ自治政府議長ヤセル・アラファトが亡くなった。

 

 

 

 

 

 

 

                                                            (写真左は埋葬地/ヨルダン川西岸パレスチナ自治区ラマラの

                                                              議長府内/2005年4月10日・筆者撮影)
 


 アラファトについては、権力への異常なまでの執着、各国からの資金援助の不明瞭な流れや巨額な遺産を残した等の闇の部分がよく話題にのぼります。また、晩年はイス ラエルや米国からテロリストとして位置づけられ、ラマラの議長府に軟禁されたりして、その影響力は大きく低下しました。

 ただ、現代のパレスチナ問題を世界に知らしめる事に貢献した事は事実であり、自分達はパレスチナ人であるとの連帯感をパレス チナ人に産み出したのは、アラファトの功績だと思います。ただ、以前の章にも書きましたが、エジプトのサダト大統領やイスラエルのラビン首相のようにたとえ同胞に『裏切り者』と罵倒され、暗殺されても国の将来のために実行する勇気がアラファト議長にあればパレスチナ国家はすでに建国されていると思っています。たとえまだ建国されていなくても、もう少しはっきりした道筋ができていたのではないでしょうか?

 


「アメリカンマネー」


                      

 

 

 

                    

                     パレスチナ自治区ラマラの議長府(2005年4月10日・筆者撮影)

 2005年4月9日、私はパレスチナ自治区ラマラの議長府を訪問、アラファト議長の埋葬地や分離壁を目の当たりにしました。  

 パレスチナ人タクシー運転手のチャーリー が分離壁を車中から指差し大きな声で叫んだ、その声と彼の顔つきは今だに私の脳裏 に焼きついています。  

 『アメリカンマネーだ』、分離壁建設経費の多くは米国からの財政援助で進められているのです。


 

 

 

 

 

 

 

 

              鹿子木人類愛善会事務局長(当時)とパレスチナ人タクシー運転手のチャーリー

             (ヨルダン川西岸パレスチナ自治区ラマラの議長府前にて/2005年4月10日筆者撮影)

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その24)主任研究員 矢野裕巳

「次の世代には・・・やっぱり無理かも」

 2005年4月11日夕刻、東エルサレムのアムバサドールホテルでおよそ2年ぶりに、綾部プロジェクト参加者に再会しました。パレスチナの子供は7人全員、イスラエルの子供は、兵役についたり海外に留学している関係で4名の参加でした。
 

 

 

 

 

 

 

 

 



 イスラエル、パレスチナの付き添いや子供達の父母や兄弟も数名来てくれ、 全部で22名の交流会となりました。お互いに相手を確認し抱き合って再会を喜びました。その後、ジュースとお菓子で『平和』についての討論会を2時間あまり持ちました。 激しい討論でした。元来、静かに相手の意見に耳を傾け、指名を受けてから自分の意見を控えめに述べる多くの日本人には、討論というより罵りあいに写るはずです。

「イスラエル人のパレスチナ人に対する横暴なる暴力」
「パレスチナ人が自爆テロを止めない限り平和は来ない」
「どうして自爆テロがおこるのかをイスラエル人は考えた事はあるのか」
 イスラエル、パレスチナ討論会でのお決まりの双方の意見です。

 パレスチナ人のサジャの言葉で、参加者はしばらく沈黙しました。
「日本、綾部にいる時、私はイスラエル人ともうまく、やっていけるかもしれないと思いました。でも家に帰り、日常の生活に戻ると、やっぱりイスラエルとの共存は無理かもと考えるようになりました。」

 

 

 

 

 

 

 

 


                     向かって左端の女の子がサジャ


 

「川をこえる橋」
 

 4月13日、イスラエル第3の都市ハイファから南東50キロ、アラブ人の 多く住むカラという村を訪れました。
この村に『川をこえる橋』という学校 があります。(写真下)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 エルサレムにあるハンド・イン・ハンド(手に手をとって)というNGO によってイスラエル、パレスチナの平和的共存を担う次世代の人材育成をめざして設 立されました。

  幼稚園から小学校3年生100数名のユダヤ人、アラブ人が同じ教室 で同数ずつで学んでいます。
 それぞれのクラス担任にはユダヤ人、アラブ人教師があ たります。またすべての授業はユダヤ人、アラブ人教師がそれぞれヘブライ語とアラビア語で教えます。 たとえば算数の授業は最初の15分はヘブライ語でそして次の15分はアラビア語でというように進められます。

 1年間で生徒は両方の言語を理解出 来るようになります。お互いを理解するにはお互いの言語を理解しなければならない と考えているのです。

  3年前に設立されたこの学校は年々規模が大きくなり、今年2006年には200人規模の学校になるそうです。この種の学校は、エルサレムとガリラヤにもあるそうです。

 子供を『川をこえる橋』に通わせている母親のカーメルさんに話を聞く事ができました。

 『私達の世代は生まれた時からお互いの偏見を持って育ってきました。自分達の次の世代に、そのような偏見を持たず、お互いの言語と文化を理解する子供達を育てる事、 またそのような環境を作り上げる事が平和を築く最も確実な道だと思います。』 

 

 そして彼女は次のように言いました。
 『我々の世代での平和はあきらめました。でも次の世代には是非本当の意味での共存 実現を願います。またその強い願いのもと私達は子供達をこの学校に通わせているのです。』

 ユダヤ人、アラブ人の子供達が一緒に遊び、無邪気に笑っている姿を見て、平和の意味を改めて感じた一日でした。

 

                     (写真左)仲良く遊ぶユダヤ人の男の子とアラブ人の女の子

 
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誰にでもわかるパレスチナ問題(その25)主任研究員 矢野裕巳

「大本、ユダヤ教の婚礼」

 大本から代表を

 2005年1月、大本国際部に1年間留学し、大本のよき友人である、ルース・ライ ネル嬢から出口紅大本教主へ結婚式の招待状が届きました。非公式にメール等でも国際部を通して教主様のイスラエルへのお出ましへの打診が何度かありました.

  結局 御公務のスケジュール調整がつかず、教主様の御出席は実現しませんでした。綾部とエルサレムの友好関係の架け橋としての彼女の現在までの功績を評価され、教主様には鹿子木旦夫総務(当時)を大本代表としてイスラエルへ派遣される事になりました。通訳として、私も同行しました。

 

                                           

 

 

 

 

 

 

 

 

                                             写真:鹿子木旦夫・大本総務(当時)とデービッド・ロゼン師

               二人が手にしているのは、ユダヤ教婚礼の伝統にのっとった新郎から新婦への結

               納書:馬○頭、羊○頭、牛○頭などど書かれてある。

 


「至福の時でも」

                      2005年4月8日、ルース・ライネル新婦、リロン・シェバック新郎 

                    (写真左)の婚礼はテルアビブ郊外のライネル家で執り行われました。

                      ユダヤ教からは、ラビであるデービッ ド・ロゼン師が、大本から

                     は、鹿子木旦夫宣伝使がそれぞれ立ち会いとなり、大本、ユダヤ教   

                     の合同司式による結婚式でした。

                      式はおよそ日本人には考えられない程カジュアルなもので、ロー

                     ゼン師のお話で始まり、ジョークを交えて新郎、新婦を激励しなが

                     ら、お話と賛美歌で式が進められていきます。
 

 

「新郎の誓いの言葉、ワインによる祝福」
 
                      次に鹿子木総務が『結婚式祝詞』を綾部の方角へ向かって奏上

                    (写真左)、この日の為に教主様に御揮毫いただいた結納短冊の交

                     換、オリーブの枝に結んだ短冊のお歌を鹿子木総務が朗詠。朗詠の

                     あとそれぞれの短冊を新郎、新婦に手渡す。(写真下)。







 

 

 

 

 

 

 

                      天津祝詞(あまつのりと)奏上後、教主様お手造りのお茶碗で一

                     服の薄茶を新郎、新婦二人で分かち合いました。(写真左)

 

 

 

 

 

 

 そして教主様からのメッセージと祝福の言葉を披露して大本の祈りを終えました。

 婚礼の式は新郎がガラスコップを足で踏み砕くことで終了します。砕かれたコップは 西暦70年ユダヤ王国崩壊とともに破壊されたエルサレム第2神殿をたとえています。 ユダヤ民族のこの屈辱をたとえ至福の時でさえ決して忘れないことの証しだと聞きま した。



「皆様は幸運ですよ!」
 

 式のあと、集まった参加者に対してデビッド・ロゼン師は自身の大本との関わりを簡単に説明されました。また『ユダヤ教と大本の合同の婚礼は、歴史上初めての出来事だと思います。大本の美しい祈りに立ち会えた皆様は本当に幸運ですよ』との挨拶で 締めくくられました。
 

 

                    (写真左)新婦とそのご両親

 

 

「あの短冊をみて!」

           この6ヶ月後、2005年10月8日、ルース・ライネル女史は教主様、総長にお礼の挨拶のた

          め、亀岡へ参拝。結婚式で短冊を頂いた時、鹿子木総務より次のような言葉があったエピソ

          ードを披露。
           「『結婚生活はいつもいつも楽しいものではありません。時には喧嘩をする事もあるでし

          ょう。その時にはこの短冊を見て、お互いに一歩譲っ て相手の立場を考えるようにしてくだ

          さい。その為にこの短冊は是非、家の中でよく見える場所に掛けてください』
           私達は、もうすでに喧嘩になりかけた事が数回あります。その時お互いにこう言うので

          す。
           『あの短冊をみて!』」

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その26)主任研究員 矢野裕巳

「ガザ撤退」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 元来イスラエル国家は1948年の独立以前から、 つまり19世紀の終わりから現在のイスラエルの地にユダヤ人が入植する事から始まりました。
 ここで考える入植地とは、1967年第三次中東戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸とガザ地区に建設されたユダヤ人居住地域です。占領地のユダヤ化を狙って、 パレスチナ人地域を包囲する形で作られています。ただ、将来パレスチナ国家となる であろうこれらの『占領地』は当然イスラエルでは『管理地』という名称で呼ばれて います。

 2006年3月の総選挙で、カディマが第1党になるまで、イスラエルは労働党とリクード党が2大政党として争ってきました。労働党は平和をすすめ、リクード党は和平促進に熱心ではないとの一般的な認識がありましたが入植地は労働党の政権時に始ります。イスラエルは『防衛的観点から入植が始った』と主張。パレスチナ側は『最終的に国境が決まる時にイスラエルに有利な既成事実づくりである』と考えています。 西岸には、約130ケ所の入植地に20万人の入植者が住んでいます。そして2005年 夏の撤退前のガザにはおよそ17ケ所の入植地に7千人のイスラエル人入植者が 住んでおり、その10km×40kmの土地に100万人以上のパレスチナ人が住んでい たのでした。


   

「交渉カードは手に入れたが」
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 1967年の第3次中東戦争で、イスラエルは西岸、ガザに加え、シナイ半島、ゴラン高原を占領しました。
 周囲に自国の存在を認めない国々に囲まれたイスラエルが手にした交渉カードでした。シナイ半島返還によりエジプトと国交樹立を成立させた事を除けば、占領地返還により近隣諸国と共存という交渉もうまく進んでいません。占領が40年も続くとは当時のイスラエル指導者は決して想像していなかったでしょう。 


 

「40年の占領」
 

 国の将来については人の数だけ意見が分かれるといわれます。とりわけ2人寄れば、3つの政党ができるというイスラエル人の特質から考えても、イスラエルの入植政策には様々な意見があります。神がイスラエル民族に約束された土地であり、それを手放すことは神の御意志に反するのであると考える人達もいます。

 ただ一般に誤解され ているほど、このような宗教的シオニストの数は多くありません。大半の人々は占領地を返し、安全を確保したいと思っているのです。単純に言い切る事は困難ですがあえて、イスラエルの占領がこのように長く続いたのは、パレスチナ側にイスラエルと命がけて交渉し決断出来る指導者が出なかったからで、長くパレスチナ人を代表したアラファトにはそのチャンスは皆無ではなかったと私は理解しています。


 

「ガザ撤退の本当の理由」
      

 2004年10月、イスラエル議会はシャロン首相提唱の『ガザ撤退法』を採択。その10ヶ月後2005年8月15日に退去命令が出され、8月23日には入植者退去が成功裡に完了した事を歓迎する町村外務大臣談話が日本からも発表されました。

 6日戦争(第三次中東戦争)で得た占領地は手離さないというリクード党の信条に反する行動を決定したシャロン首相は、平和を求める政治家となったのでしょうか? 首相に座れば、今まで見えなかったものが見えるようになったというシャロン首相の言葉もよく知られています。現実には平均して入植1家族を守るのに10人から20人の兵士を配置しなければならず、防衛コストについていけない現実がありました。 一方的ガザ撤退はシャロン首相の平和への転向ではないと思います。交渉相手がいないなか、入植者の安全を守るための経済的負担がますます増え続ける事が本当の理由 ではないでしょうか。 

 和平実現の為に痛みを伴う譲歩を決断したというイスラエル政府の見解は、ガザ撤退 の真意を意図したものではないと思います。

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その27)主任研究員 矢野裕巳

「想定外は想定内」

 国際情勢の把握

 国際情勢は刻々と変化し、世界がどのように進むのかを把握する難しさは誰もが認め るところです。今回は、中東、パレスチナ問題を研究する世界の情報機関や研究所が 完全に把握できなかった2つの事柄を考えたいと思います。

 1つは、誰にでもわかるパレスチナ問題(その26)でも取り上げた2005年8月のイスラエルの一方的ガザ撤退に対する反対運動。もう1つは2006年1月25日に行われたパレスチナ評議会選挙(国会に相当)の結果です。



「民主主義の成熟度」

 2005年8月15日に退去命令、そして23日に完了されたガザ撤退は、ほとんど の専門家の予想に反した平和的撤退であったのではないでしょうか?もちろん撤退 に反対するデモ行進、立ち退きに反対する入植者及びその支持者達とイスラエル軍との小競合いがなかったとはいえません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 1982年のシナイ半島撤退と比較すれば、 宗教的思い入れの深さゆえ、ガザ、西岸北部の1部からの撤退はかなりの困難と犠牲を伴うという考えが強調されすぎていたと私は考えています。言い換えれば、シナイ 半島はイスラエルの約束の地ではありませんが、ガザ、西岸は、聖書に出てくるイスラエルの地なので、それを信じるユダヤ人や入植者から命がけの反対があるとの予測でした。もちろん撤退が予想以上にスムーズに進んだのは、周到に準備された軍隊の入植者への態度やこれまでの入植者と軍との信頼関係等様々な理由がありました。

 私は、マスコミその他で語られるイスラエルのイメージがいかにも一部の宗教的原理主義者を象徴し過ぎていると思います。神からの約束の地を決して手放すべきではな いと考える人達の数は現実にはそんなに大きくないのではないでしょうか? 今回の平和的ガザ撤退はイスラエルの民主主義の成熟度が世界の中東研究者が思う以上に高かったことに起因するのではないでしょうか?



「1番驚いたのはハマス自身」

 同様に、2006年1月25日、国際社会が注視するなか、複数政党によるパレスチナ評議会選挙が民主的に行われ、イスラム原理組織ハマスが第1党になりました 。

 

 

 

 

 

 

 

            写真中央の人物はイスマエル・ハニヤ・パレスチナ暫定政府首相(当時)AFP通信
 

 

 ハマスの対イスラエル綱領が話題の中心になり、パレスチナ和平プロセスの頓挫がクローズアップされています。

 しかしまずアラブ世界で初めての民主的な選挙が行われ、パ レスチナ自治政府を支配してきたファタファがその結果を受け入れ、民主主義のルー ルに則って政権交代が行われたのです。民主主義が唯一絶対的な制度であるかどうかは別の議論ですが、少なくてもパレスチナに民主主義が根付き始めている事は事実としてとらえるべきでしょう。

 ガザ撤退の予想同様、ハマスの躍進を予想する研究所は多くありましたが、第一党にまで躍進する事を予想する情報は少なかったと思います。 強力な野党として与党ファタファに対峙する対立軸を確立しようと目論んでいたハマ ス自身が最も驚き、最も当惑した選挙結果だったのではないでしょうか?

 ガザ撤退が予想に反してスムーズに行われた事とともに、まさに想定外は想定内。 先の読めないパレスチナ問題を如実に表わした出来事であったと思います。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その28)主任研究員 矢野裕巳

「圧力と譲歩」

 パレスチナ人はなぜハマスを選択したか

 前回でも述べたように、2006年1月25日のパレスチナ評議会選挙で 総議席132に対し過半数の76議席をハマスが獲得しました。現在のアッパス自治政府議長の支持母体であり、長年パレスチナを率いてきたファタハは43議席の獲得にとどま りました。

 武装闘争を通じてパレスチナ独立を勝ち取る方針を鮮明に掲げ、自爆テロによるイスラエル攻撃に深く関与してきたイスラム原理主義組織ハマスをパレスチナ住民は選択したのです。各国の世論調査によると、パレスチナ住民の過半数がイスラエルとの和平進展を望んでいるとの結果が出ています。

 

 

 

 

 


                                                            (写真左:2005年4月9日筆者撮影)

                      パレスチナ自治区ラマラ<ヨルダン川西岸地域の中心地>にある      

                     伝統文化会館/

                      ここで、パレスチナの子供たちが伝統舞踊を継承しようと稽古に

                     励んでいる。 (写真下:2005年4月9日筆者撮影)

 

 

 

 

 

 

 







 その同じ人達がハマスを投票したのです。 その矛盾について考えてみましょう。

1、ハマスは武装集団ですが、単なるテロ集団ではなく、ガザ地区最大の慈善、福祉組織でもあります。イスラムの相互扶助の精神にのっとり貧困層のための病院や学校を経営しています。ハマスは基本的にイスラム慈善団体で、地域住民には有難い存在なのです。

2、貧しい人達の医療やさまざまな教育の援助をしていること。これがパレスチナの人達の支持を得る理由で、単なる強硬派ではないのです。

3、長年パレスチナ暫定政府の主流派であったファタハは貧困層を解消する具体的政 策を行わなかった。

4、ファタハが中心の自治政府内の腐敗。日本を含む国際的支援の無駄遣いや着服、 縁故主義などがはびこり、一般の住民の暮らしの改善は見られなかった。

5、現状の政治体制に不満を募らせていたパレスチナ人に対して『腐敗撲滅』を掲げたハマスが選挙に圧勝した。

 以上ファタハに対する反感がハマスへの支持として選挙結果に現われました。しかしハマスに投票した多くのパレスチナ人はハマスのテロ行為を支持したわけではないのです。

 本当の支持理由がどうであれ、正当な選挙でパレスチナの人達はハマスを選択したのです。ハマスの掲げる対イスラエル政策

1、イスラエルの存在を認めない

2、武力闘争によりイスラエル占領と戦う

3、いままでの双方で達成した和解と妥協の道、二国家共存案を受け入れない

 これらの政策を変えない限り、ハマス政権は国際社会からの援助を受ける事ができず、 パレスチナ人の生活は悲惨な状態に落ち入る事になるのは目にみえています。
 現実の問題として物の流通を考えてもイスラエルを経由してパレスチナに届くようになっ ています。

 そのような状況下でイスラエルを国家として認めないという主張を続ける事ができるとは思いません。ハマスが現実路線への転換を示すよう国際社会が圧力をかける事は必要でしょう。

 そして同時にイスラエルにも長期的展望にたった対パレス チナ譲歩を引き出す努力が必要だと思います。


 

 

 

 

 

 



                      (写真)伝統文化会館の壁画

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その29)主任研究員 矢野裕巳

「イラナ・ジンガー博士からのメール」

 現在(2006年8月3日)もイスラエルと、レバノンに拠点を置くヒズボラ(イスラム教シーア派武装組織)との激しい戦闘が繰り広げられています。双方に多くの死傷者がでています。

 特に、南レバノンでは多数の民間人に被害が出ています。この問題については、今後詳しく述べますが、 今回は大本の長年の友人であり、日本芸術研究者のイラナ・ジンガー博士からの筆者へのメール(2006年8月1日)をご紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     イラナ・ジンガー博士
 

 


 博士は現在ハイファ市にある海外唯一の日本専門美術館、ティコティン日本美術館の館長で、ハイファ大学東アジア学部講師でもあります。親日家の彼女は大本へも数回来苑されていて、2000年10月には大本本部で「日本文化との出会い」と題して講演もおこなっています。

 2000年7月、大本から、100名を超えるエルサレム訪問時には、この美術館で日本の夕べを開催。八雲琴や仕舞、茶道等大本信者による日本文化紹介を企画していただきました。当日は多くのハイファ市民が集まり、我々と共に楽しいひとときを過ごしました。

 今でもその夜の事をよく覚えていると語ってくれたハイファ市民の方と筆者は今年(20006年5月27日)の訪問時に出会う事ができました。 大本からの多くの参加者も当時の事をなつかしい思い出として記憶にとどめている方もおられると思います。

                       ハィファ(写真左)は、テルアビブ、エルサレムに次ぐイスラ

                      エル第3の都市でイスラエル北部の港湾都市です。 サンフランシ

                      スコに似た美しい平和な町です。

                       7月16日、レバノン南部からロケット弾がこのハイファに打ち

                      込まれ、9人が死亡、多くの負傷者がでました。

 

 

                       以下、彼女のメールです。

「友人である矢野さんへ

 親切で心暖まるメールをいただき有難うございました。

 私は何とか気持ちを切り替えて生きて行かなければならないと思っています。

 1日も早く普通の生活に戻らなければなりません。ハイファを含め、 北イスラエルの3分の2の人達が自分の家を離れ、南へ向かわなければなりませんでした。 そんな事で、ハイファはゴーストタウンの様相を呈してきました。

 イスラエルに住む我々は皆、無実の命が奪われている事に憤りを感じています。

 誰もがレバンノンで民間人の命が奪われている事に心を痛めています。 いずれ我々もレバノンに住む人達と平和に暮らせる日が来ると思っています。レバノンはヒズボラに完全に牛耳られていると我々は考えています。

 我々ユダヤ人が望んでいるのは普通の生活です。平和な生活です。しかし、テロは自分達の利益だけを考えるテロ組織によって利用されています。レバノンとパレスチナはこれらのテロ組織に利用されているのです。このような妨害がなければ我々はもうすでに平和な関係を隣人たちと共有できているはずです。

 くどいと思われるかもしれませんが、どうか信じてください。我々が望んでいるのはただ普通の生活を楽しみたい ということだけです。我々の隣人と平和に共存したいのです。

 我々は他の國を征服するなどの意図はありません。戦争は終わらせなければなりません。普通の生活に戻らなければなりません。テロの脅威をとりのぞく道がきっとあるにちがいありません。」

 イスラエルのユダヤ人からみた観点かもしれませんが、テレビで写し出されるイスラエル軍の攻撃の陰で それを決して肯定的にみていないユダヤ人も多く存在している事が理解されると思います。


 

 

 

 

 

 

 

 

 



   (写真)ティコティン日本美術館 

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その30)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡プロジェクト」

 2003年綾部で始まった中東和平プロジェクトは、その後岡山、徳島、そして2006年の今年は亀岡が開催する事に なりました。

 世界連邦宣言都市が受け入れ先となり、イスラエル、パレスチナ双方の紛争地から10代の子供達を 日本に招く行事が今回で4年目を迎える事となったのです。

 すでに第1回の綾部プロジェクトについては詳しく説明しました(誰にでわかるパレスチナ問題その20から22)。私は岡山、徳島では最初の現地ペレスセンターとのつなぎ役を引き受けましたが、実質的にはほとんど接触はありませんでした。

 今回は綾部同様、大本本部のある亀岡がホスト役を務めるとのことで、 最初からこのプロジェクトに関わらせていただきました。

 2006年4月4日、栗山正隆亀岡市長が天恩郷を訪問。大本総長、本部長に正式に亀岡市がこの事業を引き受ける旨を説明。そしてこの行事をすすめるにあたり、是非大本が綾部プロジェクトで果たした役割を亀岡での取り組みでも同様に、またそれ以上にお願いしたいと依頼されました。

 その時広瀬総長からも、直接亀岡市長に大本にとってもこの事業の重要性を認識しておりできるだけの協力をさせていただくとの返答でした。

 翌月5月25日から6月2日まで亀岡市長スポークスマンの肩書きを頂き、私は現地イスラエルへ飛びました。パレスチナ紛争が今だ続く地から本当に子供達が日本に来れるのかを実際に現地窓口のペレスセンターと協議してくるようにとの市長のお考えでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

                                                              写真右がシモン・ペレス元イスラエル首相(元イスラエル副首相/

                                                              ペレスセンター創始者)/写真左は鹿子木人類愛善会事務局長(当時)


 日本を離れる前に市長からは次のような4点の指示と注意がありました。

1、紛争が続くなか果たしてイスラエル、パレスチナ双方の子供達が来日できるのかをペレス平和センターのトップとよく相談する事。

2、亀岡市にとって平和の問題を考える時、8月7日は非常に重要な日です。できればこの日に亀岡に滞在できる日程を組みたい事をセンターに伝える事

3、当然ながらイスラエル、パレスチナ双方の子供達が来日してこの事業が成立するのであり、一方だけの来日ではプロジェクトの成功とは言えない。あくまでも、我々はどちらかの側にたってその主張を指示するというような考えはないとの見解を明確にする。

4、その意味で可能な限り双方の子供達が同じ飛行機で、つまりパレスチナの子供達もテルアビブから関西空港までの飛行が可能なように努力して欲しい。


 ペレスセンターとの話し合いでは、在イスラエル大使館水内公使を始め大使館員の方々の協力もいただきました。上記の1~4に関して、ペレスセンター所長ロン・プンダック氏の私に対する直接の回答は次のようでした。

1に関して、イスラエル、パレスチナ双方が対立し紛争が継続しているからといって、すべての土地がそうではないのです。 双方といってもどこの子供達がこのプロジェクトに参加するかが重要なのです。

 実際平和推進というイメージを上げるため、まったく紛争と関係のないイスラエル人、パレスチナ人がそのような平和プロジェクトに招待されている事が あります。もちろん日本の方々がスポンサーになって企画されるので、その決定権はそちらにあります。

 しかしペレスセンターは、イスラ エル、パレスチナの紛争和解を目的として設立されたNGOなので、まったく紛争 に関わらない地域の子供達を招くプロジェクトに協力する事は難しいとの意見でした。

2に関しては亀岡での8月7日の意味を説明すると、そのような日に双方の子供達が亀岡の市民の方々と交流できる事は素晴らしいとの回答でした。

3、に関してもその考え方に同意を得ました。

また4に関しては非常に難しい状況ですが努力するという説明でした。

 亀岡プロジェクトがまさに準備最終段階で困難に直面した時、この時の3と4に関する話し合いが大きな意味を持ってくる事になるのです。

 
 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その31)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡プロジェクト2」

 現在進行形の紛争地から

 2006年6月3日、私のイスラエル出向からの帰国翌日、亀岡市は正式に中東和平プロジェクトin Kameoka 実行委員会を立ち上げることを公表しました。

 イスラエル、パレスチナの子供達(14歳から17歳まで)それぞれ5名づつ。そしてイスラエル、パレスチナ双方からそれぞれ1名の付き添い。また団を代表してペレスセンターから1名で合計13名の招待を決定しました。

 誰でもわかるパレスチナ問題(その30)でも書きましたが、子供達は、テルアビブの現地窓口であるペレスセンターの強い意向でまさに現在進行形の紛争地であるスデロット(イスラエル)とガザ(パレスチナ)から招待することになりました。



「そんな状況であっても、そんな状況だから」

                    2005年夏、イスラエルのガザ撤退後、すでに本紙で紹介したように、

                   パレスチナではイスラエル壊滅を唱えるハマス政権が樹立されます。

                    イスラエル撤退後のガザから手製の簡易ロケット砲であるカッサムロ

                   ケットがイスラエル領内に撃ち込まれ、その反撃としてイスラエルは近

                   代兵器でガザを空爆するという事態が続いていました。

                    そのカッサムロケット弾がもっとも撃ち込まれているのが、ガザとの

                   境界線にあるスデロットです。

 

                    5月29日、私がスデロットを訪問した時にも、3発のロケット弾が飛ん

                   できました。ちょうど1週間前の砲撃でスデロット高校の屋根に穴があ

                   いていました。

                    スデロット市の教育委員長ミリアム・サシー女史はそんな状況であっ

                   ても、また、そんな状況だからこそ是非スデロットの若者に亀岡でガザ

                   の青年と交流してもらいたいと熱く筆者に語ってくれました。

                    もちろん父兄のなかには、遠い日本へ子供を送り出す事、また望まぬ

                   ことながら紛争相手となっているパレスチナ人の子供達との交わりを懸

                   念する人もいると 率直に話してくれました。

                    ガザ地区の父兄もまた同様の危惧をかかえていました。

                    サシー女史に亀岡市長のメッセージをお渡ししました。栗山市長から

                   の、「亀岡市は精一杯、我が子を預かるような気持ちで皆さんをお迎え

                   します」との伝言を伝えました。

 持参の亀岡市の英文パンフレットを贈呈しながら、私はこの日の為に詰め込んだ亀岡市の概要を説明しました。女史は最後に改めて亀岡プロジェクトの意義に賛同され自分が責任を持って、このプロジェクトにふさわしい子供達をペレスセンターと共同で選抜し亀岡へ派遣すると約束してくれました。



「ガザから選抜の勇気」

 ガザ対話センター所長イサム・シード氏とは5月30日、午前10時、ペレスセンターで面談しました。

 ガザから通常2時間で到着できるテルアビブに8時間かけて、シ-ド氏は出向いてくれました。検問所で5時間以上の足止めを受けたそうです。

 ペレスセンターへ頻繁に訪問し、平和交流のセミナー等で多くのイスラエル人の友人を持つシード氏でもガザ出域にこれほどの困難を伴う事を私は実感しました。

 昼食を挟んでシード氏とは3時間の面談となりました。冒頭、遠く日本からこの平和プロジェクト実現のため、人を派遣された亀岡市長に感謝するとともに、 亀岡プロジェクトのパレスチナからの招待者をガザから選抜してくださる勇気と決断に敬意を払うと述べられました。

 テルアビブやエルサレムを見ればどこに紛争が存在するのか解らないでしょう。実際に現在のパレスチナ紛争が日常的に展開するガザ、スデロットこそ紛争地でありそこの子供達は目の前の鉄条線の数十メートル先にお互い暮らしていながら出会う事はないのです。遠く離れた日本で彼らが出会うチャンスを作って下さる日本の皆さんに感謝するというシード氏の言葉の重みを強く感じました。

 スデロットに住む彼のイスラエル人の友人が最近スデロットを離れたそうです。彼の子供が繰り返されるカッサムロケットの警報で眠れなくなったからです。その事をパレスチナ人として非常に申し訳ないと語ってくれました。

 しかし、イスラエルの容赦ない軍事報復によってガザの生活が完全にマヒしている現状も是非日本の人々に知ってもらいたいと述べられました。

 スデロットのサシー女史同様、亀岡プロジェクト参加にふさわしい子供を選抜し亀岡に送ると約束してくれました。



「8月5日に日本到着を」

 現地、ペレスセンターとの話し合いの中で、決定しなければならない事は日程の決定でした。

 8月7日という亀岡にとって平和を考える意味で重要な日に亀岡市民との交流大会を持ちたいとの亀岡市長の考えにペレスセンターはもちろん、 スデロット、ガザの責任者も賛同してくれました。

 大本の瑞生大祭の日でもあり、多くの信者さんが全国から参拝されるなか、大祭後の午後の集会には是非大本の信者さんも参加できるようにとの話し合いが亀岡市と大本本部で持たれるようになりました。

 日程については、8月5日に関西空港へ到着し、亀岡、東京と移動し8月11日に成田から帰国する事が決まり、いよいよプロジェクトへの 本格的な準備が始まりました。  

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その32)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡プロジェクト3」

 検問所は今日も開かなかった!

 2006年6月、亀岡実行委員会設立後も、現地パレスチナの情勢は好転するどころか、まさに全面戦争の様相を呈してきました。

 6月25日、パレスチナ武装勢力は、ガザ南部境界の通行所にあるイスラエル軍監視所を襲撃。イスラエル軍兵士2名を殺害、1人を誘拐。イスラエル軍は、拉致された兵士の解放とガザ地区からの簡易ロケット砲(カッサムロケット)発射への対抗として、ガザ北部及び中部に進攻。また、連日、ガザ地区内に空爆を繰り返し、パレスチナ暫定自治政府の建物も破壊されました。

 7月12日、シーア派武装組織ヒズボラがイスラエル・レバノン国境で8人のイスラエル兵を殺害し、2人を誘拐。 これに対し、イスラエル軍はレバノン南部、ベイルート国際空港、シリアへの主要道路を攻撃。その圧倒的な戦力でレバノン全土への攻撃を続け、ヒズボラの軍事拠点及びその支援インフラを徹底的に破壊しようとしました。イスラエルの攻撃で多数の民間人死傷者がでました。またイスラエルもハマス(ガザ)とヒズボラ(レバノン)との両面作戦を同時に考えなければならなくなりました。とりわけ、イスラエル領内に打ち込まれるヒズボラからのロケット弾の被害はイスラエル第3の都市ハイファを始め、北部人口密集地にかなりの死傷者を出す結果となりました。


 そのような情勢の中でも、ガザ、スデロットからの参加の準備が現地でも、亀岡でも着々と進められていきました。 8月5日の来日に合わせ、航空チケットの手配や日本でのプログラムの最終決定がなされました。7日のガレリア亀岡での市民との平和集会には、瑞生大祭参拝後、大本信徒も参加できるよう配慮されました。また前夜の大本愛善みろく踊り大会には、全国から参拝の信徒と共に、イスラエル、パレスチナ双方の子供達10名も踊りの輪に入る計画が考えられました。

 スデロット(イスラエル)、ガザ(パレスチナ)から、それぞれ5名の自己紹介文がこのプロジェクトに参加する意気込みと共に実行委員会へ送られてきました。


 イスラエル、パレスチナの参加予定者のそれぞれ1名の紹介文を紹介します。

サギー。イスラエルの16歳の男の子。
「過去5年間に1000発のカッサムロケットがガザから撃ち込まれました。私達は恐怖の中で生活しています。 家でも外でも学校でも常に恐怖と共に生きなければなりません。私は誰1人、犠牲にならないように神さまにお祈りしています。 パレスチナ人も問題解決を暴力ではなく話し合いで解決できるように努力して欲しいと思います。一生懸命勉強して将来は立派な建築家になりたいと思います」

アリー。パレスチナの17歳の男の子。
「ある放課後仲のよい友人と帰宅していました。友人と別れた直後、 大きな爆音があり飛行機からのミサイルで多くの人が被害にあったようです。 怖くなって走って家へ帰ろうとしましたが、先ほど別れた友人の事が気になり、 恐る恐る着弾地 点へ行くとそこには友人のかばんが、そしてそこからそんなに離れていないところに友人が倒れていました。 ・・・大切な友人を失い涙が止まりませんでした。なぜ、イスラエルの子供たちと平和に生きていけないのか?そうなれるような大人に自分はなりたい」

 

 

 

 

 





                     写真はラマラの検問書(筆者撮影)

 現地の情勢が好転しないなか、ペレスセンターから、7月30には、閉鎖されているラファファ (ガザとエジプトとの境界にある検問所)が開くとのかなり確かな情報が送られました。 また同時にイスラエル外務省との交渉で、イスラエル側との境界線にあるエレツ検問所を通り、テルアビブからイスラエルの子供たちと出国する方策も模索されました。 この計画では、栗山亀岡市長自ら、東京の外務省に電話で協力を要請。本省からの要請を受けたテルアビブの日本大使館も全力で対処することを約束してくれました。

 高い確率でラファファの検問所が開くとの情報にも関わらず、8月2日になっても検問所は開きませんでした。イスラエル軍の許可なしでは検問所を通る事は出来ず、国連関係の人を含め約3000名が検問所に並んでいました。
 ガザからの付添人、イサム・シード氏と携帯で何度も状況を確認するが、彼は繰り返し検問はまもなく開くとの 情報を得ていると回答。
 ただ8月5日に関西空港へ到着するためには、現地時間3日午前9時(日本時間午後3時)の段階で検問所が開かなければ難しいとの結論でした。 検問所を通っても、そこからカイロまで車で約8時間かかり、8月4日のカイロ発関西空港行きの飛行機に搭乗するにはこれがタイムリミットでした。

 8月3日午後2時30分、約束の時間より30分早く、ガザのシード氏から電話がなりました。
 「検問所は今日も開かなかった」  

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その33)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡プロジェクト4」

 検問所が開いた!

 ガザからのパレスチナ代表が来日出来ないことにより、亀岡プロジェクトの中止が決定されました。すでに出国の準備体制が完了していたイスラエルの代表に連絡しなければなりませんでした。亀岡実行委員会にもプロジェクト中止を正式に了承いただかなければなりませんでした。 同時に取材を予定していた、新聞社やテレビ局への伝達もあり、プロジェクト中止の残念、無念さを実感として受け入れる間もない忙しさでした。

 翌日の朝刊紙にも亀岡プロジェクト中止の記事が発表された8月4日。夜8時過ぎ、私の携帯が鳴りました。

 ガザのイサム・シード氏(写真右)からでした。

「検問所が開いた。今なら出域できる!」

 聞きとりにくい会話は雑音の混じった音波の悪さだけでは

ありませんでした。温厚なシード氏が、明らかに興奮していま

した。2度、3度、いや4度、5度かもしれません。

 私は同じ質問を繰り返しました。「本当に検問所は開いたの

か?」「今目の前の検問所が開いている、いまなら出れる。す

ぐに許可をくれないか」と同じ言葉を何度も繰り返すシード氏。

 イスラエルの代表にはもう中止を伝えた。彼らはもう空港の

あるテルアビブからスデロットの自宅へ戻っている。航空チケ

ットもキャンセルしている。しかし、待ち続けた検問所が今開

いたのだ!
 もう1日早ければ! 
 「とにかく少し時間を欲しい。最終判断を市長に仰ぐので」と伝えた。

 それからが大変でした。実行委員事務局長であり亀岡市役所秘書課長の人見徹氏と深夜まで協議。「子供達が重い荷物を持ち、何日も検問所に並んで日本へ向かう準備をしてくれた事。そして今も日本の土を踏みたいと望んでいるガザの子供たちの希望は是非実現してもらいたい。ギリギリまで可能性を探るように」との亀岡市長の 強い意向でした。



「栗山市長の決断」

 最終的に日付けの変わった8月5日午前2時30分。やはり無理であるという結論を市長が下されました。以下の理由です。

1. 8月7日の午後、ガレリア亀岡で開催の市民との平和集会に是非、イスラエル、パレスチナ双方の出席が条件である。

2. 航空便を調べていけば、8月7日に亀岡へ到着する事は可能です。

 しかしこれからチケットを購入する事の問題。さらににガザの検問所からエジプトのカイロまで8時間車で走り、カイロに到着してからチケットを手配するとの事。チケットの手配にはエジプトの日本大使館にも協力依頼を打診しました。

3. それにしても時間が限られていました。すべてがうまく働いてようやく8月7日の午後に間に合う事ができるのです。

4. イスラエルの代表にも連絡を何度も取りました。こちらもチケットはすでにキャンセルしていました。加えて8月4日は金曜日。イスラエルは金曜、土曜は休日です。

5. こんどは、パレスチナ代表だけが来日してイスラエルからの代表は遅れて到着との不安もでてきます。


 2006年、8月4日の午後8時過ぎから翌日午前2時30分までの記憶は私のなかで一生消える事はありません。

 とりわけ、最後の栗山市長の次の発言は決して忘れる事はないでしょう。


 「私は個人としては、どんなことをしても、たとえ7日の式典に間に合わなく

ても、毎日朝4時に起きて重い荷物をもって検問所に並んでくれたパレスチナの

子供たちに日本の、亀岡の土を踏んでもらいたいと思っています。

 ただ、亀岡市として行事を開催する責任者としては、確実に双方が市民との

行事に参加できる事が確約できなければ、この段階で仕切り直しはできないです。

非常に残念です。」  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                         栗山市長(当時)

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その34)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡プロジェクト5」


 8月7日午後2時から「平和記念式典・市民平和交流大会」は予定通り「ガレリア亀岡」を会場に開催されました。(写真下)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 亀岡市民850名、瑞生大祭に参拝にした大本信徒も多数参加。最終的に今回の亀岡プロジェクト中止を受けて、 今回のプロジェクトのイスラエルの世話役兼団長であるジブ・スタール女史は電話で筆者に次のように語ってくれました。

 「地理的に近いにも関わらず、イスラエルの子供達は同年代のパレスチナの子供がどのような状況に置かれているか、 どのような生活をしているか等についてほとんど知りません。多分パレスチナの子供たちもイスラエルの子供たちについては、 ほとんど理解していないと思われます。

 しかし、今回の事でイスラエルの子供たちは、同年代のパレスチナの子供達が、日本で自分たちと共に1週間過ごす為にこれほど努力し、希望してくれているのかを知り大変感動しています。

 その意味で日本の土を踏む事は出来なかった事は残念ですが、亀岡プロジェクトが取り組もうとされた精神は子供たちに伝わったと思います。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             ジブ・スタール女史

 



 ジブ・スタール女史は8月7日の式典に次のようなメッセージを送ってくれました。
最後にそれを紹介して亀岡プロジェクトのまとめとします。

 「パレスチナの代表、イサム・シード氏に代わり、まず彼がメッセージを送る事ができない事をお詫び申しあげます。

 現在ガザ地区では電気が通っていません。そこで、私は彼の分まで御挨拶させて頂きたいと思います。ただもし現在のパレス チナ情勢が今とは違ったものであるならば イサム・シ-ド氏は素晴らしい挨拶をお送りする事が出来たと確信します。現在の情勢がそれを許してくれません。

 まず私達を日本にお招きいただく計画をたてていただきました亀岡市、また亀岡市長に心よりお礼申し上げます。 現実にはこの計画は実現しませんでしたが、そのご努力に感謝いたします。また中東に和平をもたらすべくこの地域に関心をもっていただいている事にも感謝いたします。 これは本当に感動的な事です。とりわけ現在の情勢下においてなおその関心を持続していただいていることに。

 ペレスセンターは1996年、前イスラエル首相シモン、ペレス氏によって設立されたNGO(非政府組織)です。

 我々の目的はペレス氏の理想を押し進める事です。中東地域に住む人達が協力と対話により平和を共に築くよう働きかける事です。 我々の活動はアラブ、イスラエルの双方の経済的、社会的利益に焦点を当てています。とりわけ、イスラエル、パレスチナ関係を活動の中心に置いています。 平和構築プロジェクトは国内のそして海外でのパ-トナーとの協力により進められています。たとえは、亀岡市やイスラエルの日本大使館等です。

 今回来日予定であった子供達は2つの地域からで、共に現在の紛争に深く関わっています。ガザはパレスチナ自治区にあり、多くの暴力の標的となっているところです。 またスデロットはイスラエル南部の町で多くのミサイル攻撃の標的になっています。

 子供達は紛争の苦悩や悲しみを代表するだけでなく、平和とよりよい未来に対する希望でもあるのです。

 この代表団の目的は本当に勇気あるこの子供達を通して、日本でなければ決してお互いに出会う事があり得ない機会を提供して頂くことでした。

 我々ペレスセンターはイスラエル、パレスチナ双方の子供や若者が出会い、交流する事でお互いの否定的なステレオタイプなイメージを払拭し、平和的対話を通じてお互いの肯定的な視点を育てたいと考えています。

 パレスチナ側の代表、イサム・シード氏、また来日予定であったスデロット、ガザからの子供達を代表して私はもう一度皆様にお礼を申し上げたいと思います。最後まで私達の来日を可能にするため多大な努力をしてくださった皆様に感謝を申し上げます。

 いつかかならず情勢が安定した時に皆様にお会い出来ます事を楽しみにしています。
 ありがとうございました。

 シモン・ペレス平和センター代表 Ziv Stahl(ジブ・スタール)」

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その35)主任研究員 矢野裕巳

「ジュベル・ムーサ(モーゼ山)」


 2006年11月29日、世界連邦日本宗教委員会主催、第28回世界連邦平和促進東京大会が国学院大学で開催されました。

 大会宣言では、「ユダヤ、キリスト、イスラムの聖山であるシナイ山での共同礼拝を再び世界の指導者に 呼びかけること」が表明されました。かつて1979年、1984年に合同礼拝式が執行されました。


 国学院大学での大会の1ヶ月後、12月30日早朝、私は鹿子木旦夫総務(当時)と共に地元ではアラビア語でジェベル・ムーサ (モーゼ山)と呼ばれる標高2,285メートルのシナイ山頂(別名ホレブ山頂)に立っていました。

 5合目にあるセントカテリーナプラザホテルから8合目まではややきつい坂道を約2時間半。 8合目から山頂へはごつごつとした階段を900段。12月30日午前2時30分、真っ暗な中、世界中からやってきたおよそ500人の巡礼者と共に山頂での日の出をめざして5合目から登山を開始しました。

 足に自信のない人には8合目までラクダが用意されていました。そのラクダが後や前からやってくるため、 崖すれすれに歩かなければならないところがあり、毎日かならず怪我人がでると聞いても驚きませんでした。 特に8合目からの階段は、雪が凍って滑りやすくあちこちで転んでいる人がいました。

 ユダヤ、キリスト、イスラムの 聖山であることから、信仰に熱心なかなり年配の方も多くいました。また多くの白人系、アラブ系に混じって韓国からのグループの多さに気づきました。韓国でのキリスト教の浸透が感じられました。

 大本メンバー約2名は当初、 日頃の運動不足と睡眠不足を考えラクダでの登頂を考えましたが、現地緊急ミーティングの結果自分の足で登る事に 決めました。鹿子木総務は現地案内人の青年に手をひかれ、どんどん前へ、かなり早いスピードで次々と前の人を 抜いていきました。
 私はまだまだ将来があるのでここで倒れるわけには行かないと考え無理をせず自分のペースで休憩を取りながら 登りました。

                      午前6時過ぎ、山頂へ到達。山頂は非常に狭く、とにかく寒い!

                     マイナス20度ぐらいだと聞きましたが 眼鏡が凍って何も見えない!
                      眼鏡の氷がほぼ溶けた頃日の出!一斉に歓喜の声がそれぞれの母

                     国語で発声されました。

                      この山が本当にモーゼが十戒を神から授かった山かどうか歴史的

                     な証明はされていませんが、この山なら神が契約を結ぶ山と決定さ

                     れても不思議ではないと感じました。今私が目にしているこの山の

                     神々しい風景はおそらく紀元前1250年頃も 変わらないのでは。

 御来光を拝んだ後、全員が一斉に下山。午前9時30分にはホテルに戻りました。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のそれぞれの信仰者が助け合って登山する姿をみて、 1ヶ月前に東京で表明された 合同礼拝としてのシナイ山の意味を考えながら、多少がくがくする膝を気にしながら、下山しました。



「パレスチナ人から視た中東和平への展望」

 11月29日東京大会での基調講演はアルクドゥス(エルサレム)大学のムンサル・ダジャーニ博士が 「パレスチナ人から視た中東和平への展望」と題して話されました。

 私は11月24日の成田到着から大会翌日30日の帰国までの1週間、博士の通訳、お世話係として行動を共にさせていただきました。

 博士はエルサレムでお生まれですが、米国やエジプト、ヨルダンでも長く生活された経験があり、バランス感覚にすぐれたパレスチナの論客という 印象です。 CNNを始め米国のメディアにも頻繁に登場する人物です。

 

 

 

                                                             (写真左)歓迎レセプションにて。ダジャーニ博士と故・廣瀬静水

                     世界連邦日本宗教委員会委員長(当時)

 ともすればパレスチナ紛争を一方的にイスラエル非難に終始するパレスチナ論客が多い中、 博士は問題の一端、いや半分はパレスチナ側に問題があるとの考えを公言される事に敬意を示したいと思います。

 また、2007年新年の教主さまご挨拶でもこの国学院大学でのダジャーニ博士の講演について述べられています。

 ダジャーニ博士との出会いや博士のパレスチナから視た中東和平への取り組みについては別の機会で詳しく述べたいと考えています。  

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その36)主任研究員 矢野裕巳

「大本大祭、大本歌祭りへ」


2003年夏の綾部プロジェクト以来、駐日イスラエル大使、パレスチナ代表またアラブ各国から、大本の大祭参拝、歌祭りへの参加が続いています。 今回はその様子を写真で紹介したいと思います。


                     2003年8月7日、大本瑞生大祭で挨拶するワリード・シアム駐日パ

                     レスチナ常駐総代表部代表(写真左)
                     人類愛善新聞2003年9月号にて取材

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








                     2006年5月5日、大本みろく大祭で挨拶するエリー・コーヘン駐日 

                     イスラエル大使(当時・写真左)
                     人類愛善新聞2006年6月号にて取材






 

 

 

 


                     2006年11月6日、大本開祖大祭で挨拶するサミール・ナウリ駐日ヨ

                     ルダン大使(当時・写真左)
                     挨拶文





 

 

 

 

 

 



                      2007年2月3日、大本節分大祭で挨拶するヒシャム・バドル駐日

                       エジプト大使(当時・写真左)
                      挨拶文









 

 

「2006年4月30日、京都金剛能楽堂で歌祭りが開催」

                                                                ワリード・シアム駐日パレスチナ代表部代表は
                                                               『一つ土地 分けてさかゆる エルサレム永遠(とわ)の平和を 

                                                                 今ぞつくらむ』と献歌されました。

                                                                 その歌が最終的に国際部に送られて来たのが4月12日でした。

                      実はその2日前には次のような歌が届いていました。
                     『パレスチナ・イスラエルとも手を合わせ エルサレムこそ 

                      二国の首都に』 
 

                      文化、芸術は政治とは別の世界ですが駐日代表の立場ではその時期のパレスチナ情勢が歌にも影響されたのです。
当日は12日の歌が献歌されました。

イスラエル大使の献歌は次の通りです。 
『エルサレム 祈る人々 天の神 いつかこられる 愛と平安』 

(写真下) 京都金剛能楽堂で大本歌祭りの様子

 

誰にでもわかるパレスチナ問題(その37)主任研究員 矢野裕巳

「米国の役割、日本のアプローチ」


 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     (写真左)大本本部で開催の「イスラエルの夕べ」
 

 

米国の役割

 世界の紛争解決の鍵を握るのは米国である事を否定する人はいないでしょう。

 パレスチナ問題解決にとって最も必要な事は、いかに米国がこの問題に深く関与するかであると思います。市民レベルの草の根運動の重要性を 認識し実践する事、また国連外交を機軸にする事は当然のことですが、 米国の公平な仲介がなければパレスチナ問題も実質的な進展はないと思 います。



米国はイスラエル偏重か?

 パレスチナ問題で必ず出てくる問題は、米国のイスラエルへの一方的擁護とも受け取られる行動です。

 国連の場でイスラエル非難に対する決議を出しても必ず米国が拒否権を発動するという新聞記事を読まれた事があると思います。

 米国のユダヤロビーの強さやキリスト教右派のイスラエル支持等もよく話題にのぼります。私自身はイスラエルやユダヤ人へのあまりにも固定 化された多くのイメージは誤解であり間違いであると思っています。

 2007年3月15日、大本本部で開催の「イスラエルの夕べ」でアビタル・ バイコビッチ女史は来日以来同じような質問を日本から受けて少々閉口していると語っていました。

「ユダヤ人は金持ち?」「ユダヤ人は頭がいい?」「ユダヤ人は米国を世界を支配している?」「イスラエル諜報機関は本当にすごいのか?」などです。

 文部科学省の奨学生として上智大学大学院博士課程で学ぶ彼女は頭脳明晰である事は確かでしょうが、金持ちでもなく、多分世界を支配している事実はないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 

 

 

 

            

               アビタル・ バイコビッチ女史

 

米国でのタブー、それはイスラエル非難?

 イスラエルやユダヤ人に対するあまりにもお決まりの観念は偏見でしょう。しかし米国がイスラエルにとって最大の同盟国であり援助国であることは事実です。

 昨年2006年9月7日付け The Japan Times にLos Angeles Times 紙の記事が掲載されていました。

 ロサ・ブルックス、ジョージタウン大学教授のその記事の内容を紹介したい思います。「イスラエル政府の政策について批判的な書物を書いて みなさい、そうすればあなたは理解するでしょう。もしあなたが幸運な らディナーパーティに招待されなくなるでしょう。もしあなたがそれほ ど幸運でなければあなたはネオコン(新保守主義者)の専門家から、全面的攻撃を受ける対象になるでしょう。 狂信的反ユダヤ主義者として。