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誰にでもわかる世界の紛争(その1)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”ミャンマー(ビルマ)”

 

人はなぜ争うのか?

 人類の歴史は戦争の歴史であるとも言われます。戦争が悪であると考える人は多いと思います。それでも、今なお世界には多くの紛争が存在し、多くの人達が苦しみ、命の危険にさらされています。世界各地で勃発する争いのいくつかを取り上げ、その背景を広くそして重点的に解りやすく学んでいきましょう。それぞれの紛争の背後にある共通の問題点を共に検証する事が最終的な目標です。

 初回は ミャンマーについて取り上げます。

◆ミャンマー VS ビルマ

 第2次世界大戦直後に出版された竹山道雄の「ビルマの竪琴」という本を読まれた人が多いのではないでしょうか?

 これは、市川崑監督により、1956年と1985年に2度映画化されました。2度目の作品では僧となった水島上等兵役の中井貴一、井上隊長役の石坂浩二が話題になりました。

そのビルマがいつの頃からかミャンマーと国名が変更されていると感じているのではないでしょうか。

 実際、最近のビルマの記述には、元ビルマで現在のミャンマーであるとの説明がついています。

 1989年6月18日、ビルマ軍事政権は国名をビルマからミャンマーに変更しました。

ただし、これは英語呼称を現地語にしたのであって、Japan をNippon にしたようなものです。もともとビルマという言葉も英語のBurmaではなくオランダ語から江戸時代に 入ってきたものと考えられています。ポルトガル語説もあり)

 

◆親軍事政権 VS 反軍事政権 ?

 他民族国家ビルマには135の少数民族が存在します。しかしその70パーセントがビルマ民族です。「ビルマ」という呼び方は少数民族を含めた呼び名ではないというのが、変更の1つの理由とされています。これに対しても「ミャンマー」がすべての民族を含む意味にはならないとの意見もビルマ専門家から出ています。

 つまり、言葉の意味というより、武力で政権を奪取した政権が国民の意向を聞かずに 国名を変更した事が許せないという民主化勢力の考えが存在するからです。現在のビルマ軍事政権を認めていない人は「ビルマ」と呼び、便宜上であっても軍事政権を認める人は「ミャンマー」と呼ぶとの理屈が成り立ちます。

 日本は1989年2月17日、今の軍事政権をいち早く認め、多額の援助をしています。

 しかし現実にはほとんどの人は、 そんな事など考えずに「ミャンマー」と呼んでいるのです。

 

◆英国からの独立

 東南アジアの西端に位置するミャンマーの面積は日本のおよそ1.8倍。人口は 約6,000万人。英国との3度の戦争に破れ、1886年から英国の植民地時代が始まります。

 その後ビルマ人による対英独立運動が起こり、第2次世界大戦が始まると、アウンサン将軍はビルマ独立義勇軍を率いて日本軍と共に戦い英国を駆逐。日本の南方進出 の思惑と合致し、日本の後押しでビルマ独立を勝ち取ります。

 その後、将軍はインパール作戦の惨敗等日本軍敗色濃厚となる大戦末期には英国側に寝返ります。しかし、イギリスは独立を認めず、英国領となります。第2次世界大戦後、1948年、ビルマ連邦として独立。

 しかし、その前年建国の父であるアウン・サン将軍は暗殺されています。独立直後か ら国内には、少数民族の問題を抱え、不安定な状態が続きます。英国の植民地政策 である民族分断統治が核心的要因なのです。民族対立により植民地支配を強めるという思惑です。1962年その混乱の中で、ネ・ウイン将軍が軍事クーデターを起こします。

 ビルマ社会主義計画党の最高指導者として1988年まで軍事独裁政権を維持します。 ネ・ウイン将軍もアウン・サン将軍と共にかつて英国からの独立を夢見て、日本で猛烈な軍事訓練を受けていました。

 

◆アウン・サン将軍の娘

 1988年、ビルマに国民的民主化運動が起こり、ネ・ウイン独裁体制が崩壊しました。 ソウ・マウン将軍が国家法秩序回復評議会を設置。新たな軍事政権は総選挙を公約。民政移管までの暫定政権としてスタートする。民主化を求める国民民主連盟も故アウン・サン将軍の娘であるアウンサン・スーチー女史を書記長としてその活動を活発化させていきます。

 私は以前京都大学留学中のアウンサン・スーチーさんと亀岡で食事をした事があります。 1986年4月でした。スーチー女史からというより、英国人のご主人故マイケル・アリス氏から ブータンについての話を聞いた記憶があります。

当時大本国際部で共に仕事をしていた、 アレックス・カー氏はオックスフォード大学在学中、アリス教授からチベット学を学んでいました。

 その時のスーチーさんは、会話にはほとんど参加せず、次男のキム君の世話をしながら、我々の会話を微笑んで聞いていました。本当に奇麗な人だなあとしか私には記憶がなく、その後のビルマ民主化推進に命をかける壮絶な人生は想像できませんでした。

 

◆自宅軟禁

 スーチー女史は1989年、翌年の総選挙を前にして全国遊説を行うが、7月に自宅軟禁されます。1990年の総選挙ではアウンサン・スーチー率いる国民民主連盟は大勝しますが、軍政側は権力の委譲を拒否。20年経った今も委譲は行われていません。

 激しい国際非難の中1991年スーチー女史はノーベル平和賞を受賞。1995年に自宅軟禁 を解かれますが、2000年に再度拘束。2002年解除となるも、翌年3度目の軟禁状態に置かれ現在に至っています。軍事政権の独裁が続いているのです。

 2007年9月、ミャンマー軍事政権に対する僧侶、市民の反政府デモ取材中、軍兵士に銃撃され死亡したジャーナリスト長井健司さんの事を記憶している人も多いでしょう。

 本年2010年11月にスー チー女史解放との軍事政権の発表はありますが、現実にどうなるかは不透明です。私は24年前にお会いした笑顔のスーチーさんを思い出しながら、1日も早く軟禁状態から解放され、愛する祖国の復興に貢献される事を心よりお祈りしたいと思います。

(注釈:2020年7月現在、アウンサン・スーチー氏はミャンマー連邦共和国の国家顧問)

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誰にでもわかる世界の紛争(その2)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”カシミール ”

 

◆カシミール紛争と核抑止力

  「米国は、核を使用した国として道義的責任がある。核兵器のない世界に向け、具体的方策を取る」 オバマ米大統領、2009年4月5日、プラハでの演説です。世界に今だ存在する多くの紛争の中で、紛争当事国のインド、パキスタン両国が共に核保有国というカシミール問題は、ある意味でもっとも核兵器使用への脅威と言えます。ただ核抑止力を信じる人は、両国の核保有による抑止効果で、逆に大きな戦争が起こらず、平和を維持できると考えます。

抑止力とは、自分が攻撃すれば相手から報復を受けるという認識が基礎となっています。

 しかし、現在の紛争が国家間の争いだけでなくテロリスト対国家間に広がっている事を考えれば、報復攻撃されて困る都市を持たないテロリストには、抑止効果がない事になります。可能性は高くはないと思いますが、テロリストが核を手に入れ使用する際の抑止は 効かないでしょう。どう考えても、お互いに核を持つ事によって恒久平和が維持できるとは 私には考えられません。

 

◆カシミール紛争の発端

 カシミールは英語でKashmir(カシミア)、最高級毛織物の名でよく知られているインド北西部の地域です。1947年8月、インドは200年に及んだ英国支配から独立しました。

 当時インドは大 小およそ600もの藩王国に分かれて統治されていました。それぞれの王様(藩王)がヒンドゥー教徒の場合はマハラジャ、イスラム教徒の場合はナワーブと呼ばれていました。

  16世紀インドは「ムガール帝国」という国でした。1600年、英国は「東インド会社」 を設立し植民地化をすすめます。19世紀中頃におこったセポイの乱(英国支配に対する インド人の反乱)をきっかけに、ムガール帝国時代の藩主に英国に対する忠誠を条件に封建的土地所有を認め、分割統治を始めます。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が結束して、英国に反乱する事がないよう周到に統治を進めて行きます。現在のヒンドゥー、 教徒、イスラム教徒の軋轢もこの時代の英国支配体制に原因があるのであって、それ以前には共存の歴史も多く残っています。

 独立時それぞれの藩王国の多数がヒンドゥー教徒の地域はインド、イスラム教徒の多い地域はパキスタンに統合されました。その結果英領インド帝国は、インド、 パキスタンに分かれてそれぞれ独立することになりました。

 ところが、カシミールは 藩王はヒンドゥー教徒ですが、住民の多数はイスラム教徒であったためインドに帰属するか、パキスタンに加わるかの判断が難しかったのです。さらに問題を複雑にしたのは、当時のカシミールのハリー・シング藩王はインド、パキスタンのどちらにも属せず自国の独立を求めました。

 あくまでも独立を望む藩王とパキスタン帰属を望むイスラム住民の衝突が勃発。その時イスラム住民を守る名目でパキスンタンが軍事介入。ヒンドゥー教徒である藩王はインドに軍事援助を要請。その時のインドの藩王に対する条件は、 カシミールをインドに帰属させる事でした。

 これが、第1次インド・パキスタン戦争であり、カシミール紛争の発端でもあります。947年の10月末の事でした。

 

◆第2次、第3次インド・パキスタン戦争

  戦闘は長期化、泥沼化しますが、1948年12月31日 第1次インド・パキスタン戦争は、国連の調停により停戦を迎えます。調停案によりカシミールの3分の2はインド。残りの3分の1はパキスタンにと分割領有されます。あくまでも、暫定的な決定で、両国ともカシミール全域の領有をあきらめたわけではなく、対立の解消にはほど遠い内容でした。

 停戦は実現したものの、緊張関係が続き、1965年9月、インド・パキスタン両軍が再び武力衝突。第2次インド・パキスタン戦争 が起こり、翌年、国連仲裁で停戦。停戦ラインに沿ったインド・パキスタン両軍のにらみ合いが続く事になります。1947年の独立時パキスタンはインドをはさんで、西パキスタンと東パキスタンに分かれていました。同じイスラム教徒でも民族が違っていて、 1,500キロ以上離れた飛び地では、公平にパキスタン人として対応する事が難しかったのかも知れません。

 1971年、東パキスタンがバングラディシュとしてパキスタンから独立します。大量の難民がインド国内に流れ込む事を恐れたインドは東パキスタン独立のため介入。第3次インド・パキスタン戦争となりました。パキスタンは2週間で降伏。東 パキスタンはインドの力で「バングラディシュ」として独立します。この戦争でパキスタンは国土の20パーセント、人口の60パーセントを失う結果になります。

 

◆カシミール紛争 もう1つの当事国

 1959年、ダライ・ラマ14世のインド亡命以来、中国とインド間では小規模の小競り合い が頻発していました。1962年、隣接する国境線域で、2国間の大規模な軍事衝突が始まりました。戦いは中国の勝利となり、カシミールの一部を占領、その支配は今も続いています。カシミールの20パーセントは中国、30パーセントはパキスタン、50パーセントをインドがそれぞれ実効支配しています。現在も3カ国が互いに領有権を主張して譲らず、平和的解決にはほど遠い状態になっています。

 

◆冷戦的思考からの脱却を!

 1962年の中国との紛争に敗戦したことは、インドを核開発へ走らせた要因の1つだと思います。1974年5月インドは核保有を宣言。パキスタンとの軍事バランスがくずれます。インドは通常兵器でパキスタンに十分対抗出来ました。核武装は対中国を意識していたと思いますが、結果として、パキスタンの核保有を進める事になります。第3次インド・パキスタン戦争以後30年カシミール問題は解決はされてはいませんが、少なくとも4度目の全面戦争は食い止められています。核抑止効果を信じる人には、代表的な事例かもしれません。

 冒頭述べたように核兵器使用に対する両者の恐怖が戦争抑止と安全を保証するというのは、米ソ冷戦時代の考えでした。核兵器が国家ではなくテロリストに渡る可能性がゼロではない今、この冷戦的思考から少しずつ抜け出す知恵を人類が模索しなければならないと強く思います。

 即座に核廃絶が可能だとは思いませんが、オバマ大統領の宣言した「安全保障上の核の役割を話し合いで低くする事」から始める事は出来るはずです。

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誰にでもわかる世界の紛争(その3)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”スリランカ”

 

◆セイロンティ=スリランカティー

  「和歌山みかんともいいますが、紀州みかんと言ったほうが、馴染みがありますね。長野みそとも言いますが、信州みそのほうがピンときます。「大阪名物たこやき」というより「浪速名物たこやき」の響きが印象に残りますね。

 セイロンはかつての国の名前で、今はスリランカといいます。世界の紅茶の生産の10%を占めるスリランカティーは、今でもセイロンティーと呼ばれることが多いのです。

 

◆他民族国家

 スリランカは九州と四国を合わせた面積よりやや広く、人口はおよそ2,000万人。ここ数年は紛争が絶えない国というイメージを世界に与えています。

 国民の74%はシンハラ人、タミル人は17%、マラッカラ人は7%、その他の少数民族で構成されています。シンハラ人の大部分は仏教徒、タミル人のほとんどがヒンズー教徒、マラッカラ人は、ほぼイスラム教徒です。

 

◆何がスリランカ紛争の原因か? 

  スリランカ紛争を一言でいえば、多数派の仏教徒シンハラ人と少数派のヒンズー教徒タミル人の抗争です。

 この島を支配したヨーロッパの国は、16世紀にまずポルトガル、そしてオランダ、最後に当時インドを支配していた英国がオランダを撃退。

 1815年、フランス革命後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として開催された、有名な「会議は踊る、されど進まず」のウイーン会議でイギリス領セイロンとなりました。英国は植民地下で少数民族タミル人を重用し、多数民族のシンハラ人を統治させました。これが、現在のスリランカ民族問題発生の背景となっています。

 植民地化以前のシンハラ人とタミル人は長い共存の歴史を持っています。この美しい島で、紀元前から比較的問題なく暮らしてきていたのです。同じように英国支配を受けたミャンマー(ビルマ)も同様の問題に直面しています。

 

◆シンハラオンリー 

 19世紀後半になると多数民族シンハラ人の間に反英感情が高まります。そして1948年英国連邦内の自治領セイロンとして独立。植民地時代におけるタミル人優遇に対する反動もあって、独立当初から「シンハラオンリー」を掲げてシンハラ人中心の政策が進められます。シンハラ語を唯一の公用語にし、仏教を国教扱いとしました。

 これに対し、タミル人の不満は年々大きくなり、70年代に入るとタミル人が多く住む地域で分離独立を求める運動が起こりました。また反政府勢力LTTE(Liberation Tigers of Tamil Eelam )「タミル・イーラム解放の虎」が結成され、スリランカ政府との衝突が1983年に始まり、その後この内戦は20年以上に及ぶことになります。

 私は1997年4月スリランカを訪問したことがあります。コロンボ空港でのセキュリティチェックの厳しさはイスラエルのベングリオン空港に匹敵するもので、あちこちに銃を構えた兵士を見かけました。

 

◆内戦終結宣言 

 80年代後半、隣国インドがこの紛争解決へ向けて、スリランカ政府と和平交渉に関わります。国内に多くのタミル人を抱えるインドはスリランカのタミル人の自治権獲得に努力します。しかし、LTTEはこのインドの交渉を不服として、スリランカ駐留のインド軍に攻撃を加えました。以後インドはこの問題への関与を避けています。

 2002年、ノルウェーの仲介でスリランカ政府とLTTEの間で停戦協定が結ばれました。 6年間の紆余曲折を経て、2008年1月、スリランカ政府はこの停戦協定から正式に離脱決定しました。それまでも双方が何度も停戦協定を破っており、現実にはすでにこれ以前に停戦合意は崩壊していました。この後、政府軍は武力によりLTTEを追いつめ2009年5月19日、大統領はLTTE議長の死亡を発表し、内戦終結を宣言しました。

 

◆日本の働きを!

  1983年に始まったスリランカ内戦は、2009年に終結するまでの26年間で、7万人以上の死者を出し、一応のピリオドを打ちました。内戦でインフラを壊されたタミル人へのきめ細かい支援が重要で、そうすることによってタミル人過激派の残党がゲリラ活動に走るのを防ぐこともできると思います。

 2002年の停戦の翌年、2003年6月、東京でスリランカ復興開発会議が開催され、日本は米国、EU、ノルウェーと共に共同議長として会議のイニシアティブを取りました。日本はスリランカに対する最大の経済援助国として、お金だけでなく和平プロセスにも積極的に関与しています。長い内戦が終った今、お互いの信頼を回復し2度と紛争を起こさせない枠組みをつくる働きこそ、日本がリードできる部門であると思います。

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誰にでもわかる世界の紛争(その4)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”アフガニスタン”

 

◆アフガニスタンと日本

 「初めて日本に来て以来、日本について書かれてある書物に没頭した。最初に出会った本は松尾芭蕉についてである。心奪われた。そして日本のとりことなった。時の経過とともに気づいた事があった。それは日本と私の母国アフガニスタンが、文化の面でも歴史の流れにおいても似ていると言う事であり、かつて赴任した国、旅行で訪れた国では、1度も考えもしなかった事である。」

 ハルン・アミン前駐日アフガニスタン大使は自身の著「アジアの2つの日出る国」の冒頭でこのように述べています。2004年34歳で、駐日大使として来日。外交官として、また学者としての目で日本を深く洞察し、2009年までの在任中、多くの足跡を残されました。

 2008年夏、私は岐阜の新しいモスク(イスラム礼拝堂)のオープニングで初めて出会い、その後中東関係のレセプションで何度か、話をする機会に恵まれました。

 2009年春、麻布台のアフガンスタン大使館を訪ねた時、大使は、「日本からアフガニスタン復興に大きな財政的援助を頂いて、心から感謝しています。今後も引き続き協力をお願いしたいと思っています。

 ただ私は日本の方々にもっとアフガンスタンの歴史や文化を知ってもらいたいと思っています。この本をきっかけに、アフガニスタンと日本との交流が進む事を願っています。またそれぞれの民族が持つ伝統に敬意を払うことで、世界が平和に向かって進んでいくでしょう。」と言ってアラビア語と英語でサインした本を私に渡されました。

 

◆一人のアフガニスタン大使の物語

  2009年6月、新宿の「スペース・ゼロ」でアミン前大使の生い立ちを題材にアフガニスタン紛争についての劇「クロスロード・カントリー」が公演されました。彼が東京在住の英国人劇作家と共同して、台本が作られました。

 2009年3月6日のJapan Times にも興味深い記事が載りました。その内容は1970年代のソ連によるアフガニスタン侵攻から、2002年までのアフガニスタンの歴史をカバーしています。

 1969年カブールで生まれたアミン氏は1979年のソ蓮軍侵攻後、家族と共に米国へ。 1988年祖国の自由を守ろうと帰国し、2002年タリバン政権崩壊後は駐米大使館や国連代表部で活躍します。

 2002年1月7日のニューズウィーク誌にこれからの世界を変える77名の1人として紹介されました。

 アフガニスタンはイラン、パキスタン等の国々と接する内陸国家で、人口はおよそ3,200万人、面積は日本の1.7倍で,国土の4分の3は山岳地帯で6000メートル級の山脈が連なっています。

 約40パーセントがパシュトゥーン人で、タジク人、ハザラ人、ウズベク人等で構成される多民族国家です。

古くから.モンゴル帝国など周辺諸国の征服や覇権争いに巻き込まれ、軍事侵略も受けました。ヨーロッパ列強のアジア進出や、内乱により国内の荒廃が続きました。

 アフガニスタンの東に位置するインド・ムガール帝国が英国に滅ぼされ、北に位置する中央アジアはロシアの脅威を受け始めます。

ロシアの南下政策と植民地インドの権益を守ろうとする英国に挟まれたのが19世紀のアフガニスタンです。

グレートゲーム(19世紀から20世紀にかけて、英国とロシアがアフガニスタン周辺を巡って繰り広げた政治的抗争)と呼ばれています。

 

◆タリバンは崩壊 

 1919年、アフガニスタンは英国保護領から独立します。1973年王制から共和国になります。 ソ連は1960年代から多額の援助をアフガニスタンに与えていました。東西冷戦のなか、当時は親米であったイランやパキスタンとの均衡を取る為でした。

 1979年、ソ連と距離を置こうとするアフガニスタン政権が成立すると、既得権益を守るためソ連はアフガニスタンへ進攻。明らかな内政干渉でソ連は世界各国から非難を受けます。米国や日本もその行動に対してモスクワオリンピックをボイコットしました。10年間のソ連による軍事介入は泥沼化し「ソ連版ベトナム戦争」と揶揄されるなか、1989年ソ連軍は完全撤退しました。

 その後もアフガニスタン国内では不安定な政情のまま、イスラム原理主義のタリバンが支配するようになります。タリバンはイスラム教の偶像崇拝禁止の教えのもと、バーミヤンの大仏を爆破して世界を驚かせました。

 2001年9月11日に起きた同時多発テロの首謀者であるビン・ラーディンはアフガニスタンのタリバンにかくまわれていましたが、その引き渡しをタリバン政権は拒否。2001年10月、米国を中心とした攻撃は短期間にタリバン政権を崩壊させるも、いまだアフガニスタンの治安は安定されておらず、ビン・ラーディンも逮捕されていません。

 

◆ビン・ラーディンはどこにいるの? 

  ビン・ラーディンはどこにいるのか?

 19世紀英国は地域の民族構成などを無視して、パキスタンとアフガニスタンとの国境を決めました。これは国境の双方にまたがって住んでいたパシュトゥーン人を分断するものでした。

 地形が険しく複雑な地域で、中央政府や国境に関係なく、今も彼らは民族として、部族としてまとまっている治外法権地区です。ビン・ラーディンはここにいます。それではなぜ米国は捕まえられないのか?

 それは、この地域の人達の協力が得られないからです。最新機器を使ってもいったんこの地域に入れば、地元の協力なくして、一人の人間も捕まえることができないのです。

 米国への敵対というより、いったん自分たちを頼ってかくまった客人は誰によらず引き渡さない、という部族の伝統が生きているのだと私は思います。幕末に坂本竜馬が江戸で幕府に追われても、薩摩藩に逃げ込めば、それ以上どうすることもできない。ちょっとそんなふうに考えてしまいます。

 

◆オバマ大統領のテロとの戦い

  核兵器のない世界をめざし、2009年10月には、ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領。イラクへの戦争は間違いであったと断言。米軍のイラクからの撤退を宣言します。そのオバマ大統領がアフガニスタンへの米軍の増派を重ねています。アフガニスタンとの戦いを「勝利しなければならないテロとの戦い」と主張しています。

  そのテロとの戦いの相手であるタリバンは、パキスタンで生まれています。パキスタンのイスラム原理主義勢力がパキスタン軍の1部と協力して生み出したのです。パキスタンは核保有国です。

そのパキスタンの核兵器がパキスタン軍から、アフガニスタンで活動するタリバンに渡るという事になれば?

 パキスタン軍のなかには、タリバンに共感する人もいるといわれています。

 

◆武力で問題は解決できるのか?

 世界最貧国の1つであるアフガニスタンとの戦いに10年をかけても、旧ソ連は勝利できませんでした。 莫大な軍事支出と多くの戦死者、360万とも言われる難民を国外に追いやりました。

 アルカイダを壊滅させ、ウサマ・ビン・ラーディンを捕らえる事も殺害する事も出来ない超大国米国。

 罪のない不特定多数の人達の命を奪うテロは憎むべき事で、そのテロとの戦いに国際社会は、勝利しなければなりません。

 すべての紛争が話しあいで解決できるとは思いませんが、最新鋭の兵器によって問題が解決できない事はアフガニスタンの歴史がはっきりと証明しています。

 冒頭のアミン前駐日アフガニスタン大使の、お互いの歴史や文化を理解し合う事。その上で貧困から抜け出す努力を国際社会全体で考えていく。それ以外にテロや紛争をなくす方法は存在しないのではないでしょうか?

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誰にでもわかる世界の紛争(その5)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”クルド”

 

◆国家を持たない世界最大の民族集団

 クルド人は現在、中東各国やヨーロッパにも住んでいますが、イラン、イラク、トルコの山岳地帯のクルディスターン(クルド人の居住地域)にその多くが暮らしています。

 人口およそ3,000万人。おおまかな内訳は、イランに700万人、トルコに1,500万人、イラクに400万人、またシリアに100万で、その他アゼルバイジャン、アルメニア等にも暮らしています。ヨーロッパでも100万人以上います。独立した祖国を持たない世界最大の民族です。

 民族としての起源は古く、今から4,000年前、紀元前2,000年のシュメールの碑文にすでに登場していると考えられます。

 クルド語はペルシア語に近いイラン系の言語です。 人種的にはインド・ヨーロッパ系で青い目、金髪の身体的特徴を持つ人もいるようです。

クルド人の宗教は、かつてペルシアから伝わったゾロアスター教でした。7世紀にアラブ人に征服されて以来イスラム化が進み、現在では75パーセントがイスラム教スンニー派、15パーセントがイスラム教シーア派です。

 

◆クルドは友をもたない、山をのぞいては

 このような多くの人口を抱えた民族が自らの国を持っていない例は他にはないでしょう。現在、そして将来においてもクルド人中心の国家が建設される見通しはほとんどありません。クルド人は、生活するそれぞれの国では少数派で、同化政策を強要されたり、自治権が制限されたりしてきました。 

 「クルドは友をもたない、山をのぞいては」

古いクルドの格言です。

 クルド人は、険しい山岳地帯に、それぞれの部族単位で長年暮らしてきました。天然の要塞に守られ、それによって何千年もの間独自の言語と文化を維持することが出来たのでした。

 

◆民族よりも部族への忠誠心が

 第一次世界大戦でオスマン帝国に勝利したイギリス、フランスによって、恣意的国境線が引かれ、クルド人の大半が居住していたオスマン帝国はイラン、イラク、トルコ、シリア、アルメニア等に分割されました。

 クルド人は、西洋近代的な意味での民族、民族としての一体感、国家意識の確立が大幅に遅れることになりました。

 民族全体としての願いに反して、クルド人の中での流血を伴う内紛も、この地勢と部族社会の伝統、今でも自分たちはクルド人であるとの感覚より、一部族の一員であり部族への忠誠心が第一であるとの考えによるものです。

 これまで統一国家が築けなかった原因の1つであると私は考えます。

 

◆セブール条約からローザンヌ条約へ 英国の裏切り

 クルド人として、最も有名な人物はサラディーン(サラーフ・アッディーン)で1187年、キリスト教十字軍を打ち破りエルサレムをイスラムの手に奪回した人物です。サラディーンは今でもアラブの英雄であり、自身もクルド人としてのアイデンティティを強く意識した生涯ではなかったようです。

 クルド人の1部に民族的自覚が高まるのは、第1次世界大戦でのオスマン帝国の敗戦です。 600年以上もの間、オスマン帝国支配の中で、クルド人は生きてきました。アメリカ28代大統領、ウィルソンの提唱する「民族自決」が戦後の講和会議に反映されます。

 1920年、セブール条約でクルド国家の樹立が明示されました。英国が現在のトルコ共和国東部にクルドの自治を約束します。英国は、大戦後新しく誕生する、トルコ、イラン、イラクへの緩衝地帯として、クルド人自治地域を利用しようとしたのです。当然ながら、この条約は敗戦国オスマン帝国には屈辱的内容でした。 条約への反発が広がるなか、ムスタファ・ケマル将軍(後のトルコ共和国初代大統領、ケマル・アタチュルク)が現れ、1923年、セブール条約破棄に成功。新たに、連合軍との間にローザンヌ条約を結び、有利な領土確保の条件を引き出しました。

 しかし、新たな条約では、セブール条約で言及されていたクルド国家建設は、完全に消去されていました。英国はセブール条約時には、現トルコ東部だけでなく、イラク地域にもクルド国建設の案を持っていました。しかし、そこに大きな油田地帯が発見されると、その利権を得るため、この油田地帯をイラクに統合し、イラクを英国委任統治領(1932年まで)として石油利権を独占します。

 自国の利益を優先させた英国の裏切りにより、「クルド」が国際的に認知されたセブール条約は3年で消えてしまいました。

 その後クルドが国際的な関心を得るのは、1991年の湾岸戦争まで待たなければなりませんでした。

 

◆山岳トルコ人

 1923年10月、ムスタファ・ケマル(ケマル・アタチュルク)はトルコ共和国の初代大統領に就任しました。その政策は民族的、文化的に均質な統一国家を目指すもので、トルコ語を法廷での使用言語とし、学校教育、公的な場でのクルド語の禁止を掲げました。

 以来90年近く経った今、EU加盟を目指すトルコがその条件の1つであるクルド問題解決へ着手していますが、その基本的姿勢は変わっていないと思われます。

 2001年7月、私はトルコ東部エルズルム市アタチュルク大学で、トルコと日本の文化交流会を共同企画しました。エルズルム市には多くのクルド人がいます。

 日本側の通訳を務めた私に、トルコ側担当のムスタファ・コンジャ教授は私の顔を見るやいなや、「是非お願いがある。公的な場所で、アーメニアとクルドという言葉は使わないようにして欲しい。」と言いました。「もしスピーチでどうしても言及しなくてはならない時、クルド人ではなく山岳トルコ人と表現して欲しい。」と強く要望された事をはっきりと覚えています。

 

◆トルコ国会にクルド語が響く

 2009年元旦からトルコ国営テレビで24時間のクルド語放送が開始されました。そして その翌月にはトルコ国会で野党、民主社会党の党首がクルド語で演説し、議論を呼んでいます。トルコの政党法は政党がトルコ語以外の言語で政治活動を行うのを禁止しています。この野党党首は国営テレビでクルド語放送が始ったものの、民間テレビではクルド語が禁止されている事を述べ、トルコの国語政策はクルド人への人権侵害であると訴えたのです。

 

◆11ヶ月足らずのクルド国家

 長いクルドの歴史において1度だけクルド国家が存在した事があります。

第二次世界大戦中の1941年、英国とソビエトはイランを分割占領しました。両国とも石油資源への野心からでした。

 ソビエトは表向きは少数派民族自決を支持し、ソビエトの後押しで1946年1月、イラン北部のマハーバードに「クルド人民共和国」が樹立されました。そのわずか3ヶ月後、ソビエトはイランから石油権益を得ます。その条件はクルドを見捨て、イランから撤退する事でした。ソビエトの後ろ盾を失ったクルド人民共和国は同年12月、イラン軍に降伏し、わずか11ヶ月足らずで独立国家に終止符を打ちました。(赤い部分がマハバード)

 

◆クルド地域政府

 1990年8月2日、サダム・フセイン大統領が指揮するイラクが突如クウェートに侵攻。 国連からの撤退要求を無視して、イラクはクウェート併合を発表しました。1991年1月アメリカを中心とする多国籍軍がイラクに対して攻撃を開始。イラクの完敗に終わりました。

 サダム・フセインのスンニー派体制を打倒しようとの米国の呼びかけに、イラク南部のシーア派、北部のクルド人が動きました。当初はシーア派、クルド人が優勢だったものの、湾岸戦争でも温存されたイラク精鋭部隊の出現で戦局が逆転。反サダムを呼びかけた米国の援軍がないまま、クルド人は鎮圧され、トルコ、イランへ向かうイラク北部からのクルド難民は数百万人に達しました。

 このクルド人の多いイラク北部に、多国籍軍による飛行禁止区域が設置されました。事実上のクルド自治区です。当初はクルド人部族間の内部紛争で多くの犠牲者が出たりして、自治区の機能が麻痺する事もありました。

 しかし2003年、イラク戦争でのサダム・フセイン没落後は、1991年以来の自治権をさらに強め、2005年には大統領が就任。2006年5月にはクルド地域政府が発足しました。

 

◆大きな夢として

 イラン、イラク、トルコ、それぞれの国における事情は違っていますが、基本的にクルド人の民族的権利が十分に保証されているわけではないと思います。今後イラク北部でのクルド人自治区の動向が大きな鍵となってくるでしょう。

 2010年10月18日、私は滞在先のブラジリアで、駐ブラジルイラク大使、ベイカー・ハッサン大使にインタビューしました。大使はイラク北部出身のクルド人で、サダム・フセイン時代には反政府活動家として何度も投獄を経験しています。大使のクルド人としてのアイデンティティについて、次のように話されました。

 私はフセイン後の、新生イラク初の駐ブラジル・イラク大使として2ヶ月前に赴任してきました。フセイン時代に比べて今の与えられた自由を感謝しています。今はイラク人の代表として、イラクの発展に寄与したいと思っています。)

 「将来自治区から発展して、クルドの独立国が建設される事を願いますか?」との問いに、「大きな夢として持ち続けたい。クルド人としての誇りは忘れませんよ。」と語られました。

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誰にでもわかる世界の紛争(その6)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”キプロス”

 

◆分断国家

 キプロスは地中海に浮かぶ島国で、トルコの南、東地中海に位置しています。

 島の総面積は四国のおよそ半分。気候は温暖で11月の中頃まで海水浴を楽しむ事が出来ます。

 現在世界に残る二つの分断国家の一つです。もう一つはもちろん朝鮮です。

 べルリンの壁崩壊後、首都ニコシアは世界で唯一の分断都市です。

 島の北部はトルコ系住民の「北キプロス・トルコ共和国」で、人口約21万人、島の37パーセントの領土です。島の南はギリシャ系住民の「キプロス共和国」で、人口約80万人、島の63パーセントを占めています。

 首都は両国ともニコシア(トルコ語名はレフコシャ)。 キプロス共和国がEU加盟を果たし、世界で認められた国家であるのに対し、北キプロス共和国はトルコ以外には国家承認を受けていません。

 

◆太陽のお陰です

 2008年11月、私はキプロス共和国ニコシアでの会議出席のため、キプロス島を訪問しました。ラルナカ空港からニコシアへ向かう途中、タクシーの運転手さんに、「キプロスの最大の産業は何ですか?」と質問してみました。「そりゃなんてったって、この太陽ですよ。このお日様のお陰で、世界中から人が来るんですから。」

 主な産業は、かつては農業、鉱業でした。特に良質の銅の産地として栄えたそうです。英語でキプロスの事をCyprus、これはラテン語の銅に由来しているとの説が有力です。

 現在では、太陽を求めて多くの人がキプロスを訪れます。一年中暖かく、物価も比較的安いキプロスは、特にヨーロッパからの人達の観光、別荘地として潤っています。

 地図上では、中東に属しているように思えますが、初めてキプロスに降りたった印象はいかにもヨーロッパに来たという感じでした。

 南キプロスでは労働人口のおよそ65パーセントが観光業、またそれに伴うサービス産業に従事し、GDPの70パーセントを占めています。北キプロスは南に比べ、経済的に大きく遅れています。国際的に承認された国家ではないので、トルコとの貿易に頼るだけです。

南の通貨がユーロであるのに対して、北はトルコリラを使っています。

 

◆キプロスの歴史

 第キプロスは古代ギリシャ時代よりギリシャ人の国でした。古代ローマ、ビザンティン帝国の支配を受け、キリスト教化されていきます。

 16世紀になると、キプロスはオスマン帝国の支配下で、多くのイスラム教徒のトルコ人がこの島に移住してきます。この時初めてキプロスは、イスラム教徒のトルコ人が、キリスト教徒のギリシャ人を支配する形態となったのです。

 繁栄するオスマン帝国の中で、キプロスは僻地の流刑地となり、貿易は衰退しました。 ただ、帝国は異教徒への改宗を強要しなかったので、300年以上に及ぶオスマン支配時代は、トルコ人とギリシャ人が平和に共存した時代であったと言えます。

 

◆紛争の種は英国統治時代から 

 19世紀に入り、西洋近代化に乗り遅れたオスマン帝国は、その国力が少しづつ低下していきます。英国は、ロシアとの戦いで苦戦するオスマン帝国と協定を結び、キプロスの統治権を奪ってしまいます。キプロスは地中海東部の要衝地にあり、地中海からスエズ運河を通ってインド洋へ抜けるためには、どうしても押さえたい島でした。

 第一次世界大戦では、英国はオスマン帝国を敵に回し、帝国の敗北と同時にこの協定を破棄。キプロスを完全に併合し、1925年、植民地化しました。(~1960年)

 住民を分断し、対立させて統治するという、英国の植民地政策がここでも行われました。 住民が一致して英国に抵抗してくるのを防ぐためです。

 その思惑通り、ギリシャ系住民と、トルコ系住民の亀裂はしだいに深まっていきました。現在に続く二つの民族対立は、この英国統治時代に始まったものです。

 

◆現在の問題

 やがて、ギリシャ系住民がギリシャ本国と合体しようとして、反英運動を起こします。 当然トルコ系住民の反発を受け、両住民の対立が深まり、テロが頻発します。ギリシャ系住民のリーダーとしてマカリオス三世が現れ、トルコ系住民の考えも取り入れた独立案を発表。

 1960年、キプロス共和国として独立します。マカリオスは、ギリシャ正教の重要ポストの1つである、キプロス大主教に38歳で抜擢され、対英国独立闘争を指導し、独立と同時に、キプロス共和国初代大統領に就任します。

 独立当初、マカリオス大統領は、トルコ系住民の代表者を政府の要職につけ、融和が図られました。

 多数派ギリシャ系住民と、少数派トルコ系住民とのバランスを考えた憲法が、制定されました。しかし民主主義の基本である多数決原理に沿えば、ギリシャ系の意見がすべて通ります。少数派の意見を重視するあまり、国の運営の効率が悪くなり、憲法を変えるべきだと暴力に訴えるギリシャ系が出てきます。

 1963年のクリスマス・イブ、ギリシャ系テロリストによる、トルコ系住民への襲撃は、数年に及ぶ暴動になりました。ギリシャ系住民の本国ギリシャへの帰属を求める運動と共に、武力衝突が加熱します。

 1964年、国連平和維持軍の派遣によってようやく停戦。しかし、紛争が解決したわけではありませんでした。

 1974年、ギリシャ本国との統合を求めるギリシャ系過激派がクーデターを起し、マカリオス大統領を追放します。トルコは軍隊を派遣して、トルコ系住民が暮らす北部の37パーセントを占領。キプロスが南北に分断され、トルコ系住民はキプロス北部に、ギリシャ系住民は南部に大移動しました。

 その後、1983年にはトルコ系住民による「北キプロス・トルコ共和国」が独立宣言しました。

 

◆EU 加盟を巡って

 国連は、長年の流血の歴史から脱却する道を、模索してきました。キプロス共和国のEU加盟直前、2004年4月、南北の主張を取り入れた、キプロス再統合に関する国連案について、島民投票が行われました。結果は北はYES. 南はNOでした。もちろん言い分はあるでしょうが、南のキプロス共和国は翌月、EU加盟を果たします。

 

◆基本に立ち返って

 北キプロスにとってのトルコ、南キプロスにとってのギリシャ。それぞれが民族的祖国を持っています。キプロス紛争解決にはこの祖国の立場を理解しなければなりません。

 かつてこの島を支配し、今も島内に基地をもつ英国の思惑もあります。なによりも私は、 米国内におけるギリシャロビーの存在が問題解決を左右していると思っています。ユダヤロビーほどではないとしても、米国内でのギリシャ系の力は強く、ギリシャに有利な政策を取るように、米国外交に働きかけています。当事者同士での紛争解決が困難な時、仲介者の役割は大きいはずです。しかしその仲介は、公平、中立でなくてはなりません。繰り返される国連調達案にもかかわらず、問題解決には至っていません。

 ギリシャ系大統領の下、連邦国家を主張する南と、2つの独立国家による連合、そして大統領ローテーション制を主張する北とは、いまだ大きな隔たりがあります。最終的には、南北がそれぞれ政府を持ち、中央政府が外交、国防を担当する道しか方法はないと私には思われます。

 会議を終え、ラルナカ空港へ向かう途中、大回りをして、島の南西にあるパフォス海岸に立ち寄りました。ギリシャ神話に登場する美と愛の女神、アフロディテ生誕の地を眺めながら、長年の惨事を解決するには、まずは、当事者同士の信頼醸成を積み上げるという基本に、立ち返らねばと考えていました。

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誰にでもわかる世界の紛争(その7)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”ソマリア”

◆アフリカの角

 ソマリア民主共和国はアフリカ東端に位置し「アフリカの角」と呼ばれています。海岸地帯は古来より紅海、インド洋をむすぶ交易の要衝として栄えてきました。首都はモガディシオ。人口、およそ900万人。同じソマリア語を話し、イスラム教スンニー 派に属し、文化、風習を同じくするソマリア人国家は、異民族間紛争の火種を持たない、アフリカでは稀な環境にあります。

 1960年、ソマリアのソマリア人による、ほぼ単一民族国家としてスタートしました。そのソマリアが長らく無政府状態に置かれ、現在も武 装勢力が戦闘を繰り広げています。世界でもっとも治安の悪い、無法地帯の1つだといえるでしょう

 ソマリア人同士の凄惨な殺し合いに加えて、国連職員、ジャーナリストの多くが、拉致、殺害にあっています。その原因と背景を、歴史を振り返りながら、考えていきたいと思います。

 

◆氏族紛争

 古来よりソマリア人の多くが、遊牧民として氏族ごとに分かれて暮らしてきました。 長い歴史のなかで、中央集権政府を持たず、氏族としてのアイデンティティを確立して来ました。同じ民族としての意識はなく、氏族間の派閥争いや利権争いのなかで、歴史が繰り返されてきたのです。氏族とは、共通の祖先を持つと信じられている集団で、牧畜民として分散して暮らすソマリア人社会が、社会秩序を保つための伝統的な仕組みです。

 現在の紛争も、氏族の違いによる争いがその根本にあります。

 

◆植民地政策の負の遺産

 紅海を通って、地中海に至る航路の入り口に位置するソマリア半島は、19世紀後半からヨーロッパ列強の支配を受けます。

 英国がまずソマリア北部へ侵攻し、保護領に。南部へはイタリアが攻め込み保護領にします。その後、英国が全土を支配。1960年には、ソマリア共和国として独立します。西欧列強による支配からの脱却でした。 ただ、民族としての統一意識に目覚める前の独立国家樹立が、現在の紛争の要因の1つです。ソマリア紛争は、氏族社会の覇権争いだけでは説明できない、植民地政策の負の遺産だといえると思います。

 

◆東西冷戦の犠牲

 1960年の独立後、「ソマリア共和国」はソ連の援助を導入しました。隣国エチオピアは米国の軍事援助を受けていました。

 1969年、軍部のクーデターが発生、大統領暗殺。バーレ将軍が実権を握ります。

 1970年、社会主義国家による一党独裁体制を敷き、「ソマリア民主共和国」と国名が変わります。

 1974年にはエチオピアでもクーデターが起こり、米国に代わってソ連との友好関係を築くようになります。エチオピアのオガデン地方には多くのソマリア人が暮らし、エチオピアからの分離独立運動が起こります。 ソマリア軍はその運動を支援、1978年2月、エチオピア軍との開戦となります。

 このオガデン紛争では、ソ連がエチオピアを支援したため、バーレ政権はソ連から米国へと友好国をスイッチしました。

 紅海の出口に当たるソマリア半島は、冷戦時代の米ソ軍事拠点としての価値が高く、国境紛争において、米ソから大量の兵器が投入されました。現在のソマリア紛争は、冷戦の代理戦争に利用されたとも言えるでしょう。

 

◆冷戦が終わると

 冷戦が終わると、軍事的意味がなくなり、当然、援助がストップします。ソマリア人の多いエチオピア、オガデン地方併合を目指した紛争も、エチオピアに敗れ、国内経済が破綻。 各氏族の不満が大きくなっていきました。

 1991年、バーレ政権は反政府勢力によって打倒されます。これ以来現在まで、氏族勢力の群雄割拠状態、無政府状態が続き、国の統一が実現していません。バーレ政権の崩壊、憲法の廃止、また、国際的に認められた政府 もなく、 現在のソマリアには正式国名が存在しません。

 20年にも及ぶソマリア内戦で、100万人以上が死亡。およそ50万人が国外難民に。国内難民も150万と言われています(2010年1月末)。2009年8月26日の国連報告によると、ソマリアの人口(約900万人)の半数が飢餓状態で、376万人に支援が必要、およそ30万人の5歳以下の子供が、栄養失調状態だと報告しています。

 

◆E多国間主義はモガディシュの街で!

 1992年12月、国連は内戦と飢饉に苦しむソマリアでの人道支援を目的として、国連ソマリア活動を始めます。米海兵隊を中心にした多国籍軍を派遣し、「希望回復作戦(Operation Restore Hope )を開始しました。しかし実権を握るアイディード派が武装解除を拒否。援助物資の略奪が多発します。

 1993年、米軍兵士18名がアイディード派に殺害され、少なくても74名が負傷した。この時、死亡した米兵士の死体が身ぐるみはがされ、ロープを足に巻かれて、モガディシュの街の通りを引っ張られていき、足蹴りにされる映像が世界に流れました。その冒涜姿を見て、モガディシュの住民が喜びの声をあげていたのです。

  米国の世論は、撤退に大きく動き、翌1994年、米軍は撤退します。これ以後、米国の国連に対する認識は大きく変化し、「美しき多国間主義はモガディシュの街に死んだ」との認識が米国に広がります。平たく言えば「国連とともに、人道主義的平和維持活動に従事すると、ろくな事はない」との印象を、米国指導者に強烈に与えたのでした。

 

◆海賊行為が1大ビジネスに!

 ソマリア内戦に対して、この20年間、多くの和平や国家再建への取り組みがなされてきましたが、ますます混迷の度を深めています。

 2010年前半で、20人の国際機関の援助活動家が殺害。また30人が誘拐され、うち17名が身代金を支払って解放されました。残り13名は行方が判らない状態です。 国連機関と9つの国際援助団体が、いまだ(2010年6月現在)モガディシュに残っているものの、安全の保証がないリスクの高い活動で、武装集団と暫定政府の紛争に巻き込まれ、援助活動は停滞しています。

 近年、ニュースに登場するソマリアの話題は海賊問題です。2007年頃から、ソマリア沖やアデン湾に海賊行為が頻発しています。海賊の目的は身代金で、2008年までに海賊に支払われた身代金は30億円に達したと言われています。

 スエズ運河、紅海を経由し、地中海とインド洋を往来する、年間2万隻以上の商船にとって大きな脅威です。海賊行為は無政府状態のソマリアにおける唯一のビジネスになっています。 この海賊行為を取り締まる唯一の方法は「ソマリアを秩序ある国にする」ことです。しかし、その具体的方法を示せる人間は現状では誰もいないのです。

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誰にでもわかる世界の紛争(その8)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”ルワンダ”

 

◆千の丘の国 

 ルワンダ共和国はアフリカ大陸中央部に位置する内陸国です。面積は四国の約1.5倍。起伏の多い地形から「千の丘の国」と呼ばれています。人口およそ900万人で、大きく2つの民族からなります。首都はキガリ。 

 先住民であるフツ族は農耕民族で、アジア人の体つきをした、背の低い民族です。

 15世紀にその先住民を征服し、ルワンダ王国を建設したのは、牧畜民族のツチ族で、ツチ族は背の高い人が多く、2メートルを超える人もいるようです。

人口の85パーセントがフツ族、15パーセントがツチ族です。

 

◆内戦の背景

 ルワンダは、19世紀末にはドイツの植民地となりました。第一次世界大戦でのドイツ敗北後は、ベルギーの委任統治領となります。植民地以前のルワンダは、ツチ族がフツ族を封建的主従関係で支配していましたが、少なくても、内戦で国がばらばらな状態ではなく、前時代的な意味での共存であったと言えます。 ドイツもベルギーも、ツチ族とフツ族の対立を、植民地支配において最大限利用してきました。

 少数民族のツチ族を、極端に優遇する事によって、多数民族のフツ族の不満が植民地支配国ではなく、ツチ族に向くように、部族間の対立を可能な限りあおったのでした。 民族同士をたくみに対立させ、植民地政府への抵抗エネルギーを削ぐ分断統治は、植民地政府の常套手段であり、ここルワンダでも行われました。

 

◆報復の連鎖

 ベルギーはツチ族との関係が悪化すると、フツ族による体制転覆を一転支援し始めます。この動きは1962年、ルワンダがベルギーから独立する数年前から始まります。1部のツチ族は報復を恐れ近隣諸国に脱出します。

 近隣諸国に避難したツチ族はゲリラ組織を編成し、ルワンダに越境攻撃を加えます。その度に、ルワンダ国内にいるツチ族に対する報復が、フツ族により繰り返されます。

 

◆ルワンダ愛国戦線

 1973年、クーデターによりフツ族のジュベナル・ハビャリマナが大統領に就任します。当初はツチ族との融和政策を打ち出しますが、しだいに反ツチ傾向を深めて行きます。 隣国ウガンダへ難民として流れたツチ族は、反政府勢力「ルワンダ愛国戦線(RPF)」を結成。その勢力は、ルワンダ政府が独裁制を強化するにつれ、影響力を拡大していきました。

 そのRPFは1990年からルワンダ北部へ越境侵攻を開始。RPFの猛攻により、ハビャリマナ大統領は1993年、RPFとの和平に合意します。この合意をもとに、国連の停戦監視団も現地に派遣されました。しかし、現実には、和平協定の履行は困難な状態が続き、むしろ対立は深刻度を増していました。フツ至上主義者による反ツチ・プロパガンダは加速したのです。

 

◆ルワンダ大虐殺

 1994年4月6日夜、ハビャリマナ大統領が搭乗していた航空機が、首都キガリ空港着陸寸前に撃墜されました。

 フツ族強硬派は、墜落事件をツチ族の仕業と非難。ところがこのフツ族出身大統領暗殺が、実はフツ族強硬派の手によってなされたとの声もあります。ツチ族への反感を鼓舞するため、フツ族自身で大統領を殺害したとの考えです。犯人は今だ、特定されていません。 しかし、この事件をきっかけに、ジェノサイド(集団殺りく)が始ります。

 ジェノサイドとは、人種や民族、国家など特定の集団に対して行われる抹殺行為です。ラジオを通じてフツ族住民に、ツチ族の殺害を促すなど対立をあおりました。当時日本でも大きく報道されました。

 犠牲者の数には様々な説がありますが、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば100日間で、およそ80万人のツチ族住民、また一部のフツ族穏健派が殺害されました。

「ツチ族を殺せ」との号令が政府から出され、1人殺すごとにお金がばらまかれ、お金に目のくらんだ多くの若者が、「皆がやっているから」と、この虐殺に加担しました。

 当時ルワンダ国内にいたユニセフ、スタッフの証言。「ルワンダ国内では、虐殺された市民の死体があちこちにころがっており、その死体の放置による、水質の汚染、断水、衛生施設等により、被害はますます広がる様相を呈している」

 近代アフリカ史上、類のない大虐殺となりました。

 

◆ルワンダ写真展

 2010年11月20日、私は京都造形大学で開催の「ルワンダ ジェノサイドから生まれて」のオープニングに出席しました。

 大虐殺の中、大勢のツチ族の女性が性的暴力を受け、その結果、約2万人の子供が生まれました。その事実はいまだ、ほとんど知られていません。

 こうした女性達は肉体的、精神的、また社会的トラウマを抱えながら子供を育てています。約3年をかけて、このような女性30人とその子供にインタビューし、撮影した作品展でした。

 彼らの多くがHIV /エイズに苦しんでいます。イスラエル生まれの報道写真家ジョナサン・トーゴヴニクの作品でした。

 この写真展は欧米各地で催されていますが、日本では初の開催です。

 

◆アフリカの奇跡

 和平協定により停戦中であったRPFは、虐殺が始まると軍事行動を再開し、1994年7月19日、RPFは全土を掌握。穏健派フツ族の大統領による新政権が成立します。

 新政権は、出身部族を示す身分証明書の廃止等、国民融和、和解のための施策を次々と打ち出します

 2001年には市長選レベルの選挙、2003年には大統領選挙が実施されました。1994年の大虐殺の影響で、1995年にはルワンダ人口は170万人減少しました。

 しかし、2000年の統計では、およそ200万増加しています。紛争で国外脱出し、海外で教育を受けたツチ族の多くが帰国しました。彼らは、国の復興、近代化に尽力、経済成長率11.2パーセント(2008年)を記録し、現在では「アフリカの奇跡」と呼ばれています。他のアフリカ諸国に比して、汚職の少なさ、治安の良さは際立っています。

 コーヒーやお茶が主要輸出品です。日本との関係もよく、2010年1月、在ルワンダ日本大使館が開館。しばらく閉鎖されていた在日ルワンダ大使館も、2005年再開されています。

 周辺諸国へ逃げ込んだフツ族過激派残党の不穏な動きが、依然一部で見られますが、現在のルワンダ情勢は、確実に安定に向かっていると思われます。 それだけに、今一度、20世紀最悪の大虐殺を忘れる事なく、その事実を検証する必要が、ルワンダだけでなく国際社会にも、今、求められていると私は思います。

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誰にでもわかる世界の紛争(その9)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”シエラレオネ”

 

◆ダイヤモンド紛争 

 2007年、日本で公開された映画「ブラッド・ダイヤモンド」はレオナルド・ディカプリオ主演、シエラレオネの内戦を題材に大ヒットしました。

 シエラレオネ共和国は、アフリカ大陸西端近くの、大西洋を臨むリベリアとギニアの間に位置し、面積は北海道と同じぐらいです。人口およそ600万人(2008年)。宗教は60パーセントがイスラム教、10パーセントがキリスト教、残りの30パーセントがアニミズム信仰です。

シエラレオネは人間開発指数ランキング、世界177カ国の中で、176位です(2006年)。

 人間開発指数とは、開発、発展、あるい貧困の度合いを総合的に計る数字で、平均寿命、 教育水準(就学率、識字率)、1人あたりの国内総生産(GDP)から計算されます。 上位には先進国が並んでいます。シエラレオネは世界でもっとも貧しい国の1つです。 パキスタンの経済学者マプール・ハクによって作られ、1993年から国連年次報告で公表されています。

 2009年はノルウェーが1位、オーストラリアが2位で、日本は9位、米国は13位です。過去30年で、ノルウェー、カナダ両国がほとんど1位を独占していて、日本も1991年、1993年に1位でした。

 映画の題名にもあるダイヤモンド。シオラレオネではダイヤモンドが多く採れます。 シエラレオネで最も重要なダイヤモンド産業が、反政府勢力の武器調達資金になっていたので、シエラレオネの内戦は「ダイヤモンド紛争」とも呼ばれています。

 

◆内戦勃発

 16世紀後半に、イギリスの奴隷商人がシエラレオネに来ます。しかし1787年、英国の奴隷廃止論者たちが、解放奴隷をシエラレオネに入植させ、解放奴隷の居住地として都市化しました。その町が現在の首都「フリータウン」です。 1808年英国領になり、1961年独立しますが、政権は安定せず何度もクーデターが起こりました。

 解放奴隷の子孫クレオール。クレオールはキリスト教徒に改宗しますが、イスラム系黒人のテムネ族や、土着信仰(アミニズム)のメンデ族と、権力闘争を続けていました。

 1991年、政府と、サンコー議長率いる反政府組織「革命統一戦線」(RUF)との間に、長期内戦が勃発します。 RUF(Revolutionary United Front )はダイヤモンド生産地を制圧。採掘したダイヤモンドの密輸で軍事資金を調達。またRUFは、制圧地区の住民をダイヤモンド採掘で強制労働させたり、罪のない人の手足を切断するなどの蛮行により、住民を恐怖に陥れました。

 手足を切断された住民は、米の収穫作業が出来なくなり、食料をRUFに頼るようになりました。 政府軍は、食料の道を絶たれ、飢餓状態で、国は不安定化。RUFの狙い通りでした。

 RUFによる残虐行為は、国連、人権団体から大きく非難されます。拷問、レイプ、民間人の手足を切断するなどの無差別行為は、政府軍の戦意を喪失させ、住民を服従させるための見せしめだったのです。

 

◆国連派遣員の拉致

 1996年、大統領選挙でアフマド・カバ大統領が就任しますが、1997年、政府軍下級兵士による軍事クーデター、そしてRUFの蜂起により、カバ大統領はギニアへ脱出。 1998年には、西アフリカ諸国平和維持軍の介入により、RUFを駆逐し、カバ大統領は再びシエラレオネに帰還します。

 その後、RUFのゲリラ活動は再び激化し、2000年5月、平和維持軍として駐留する、国連シエラレオネ派遣団がRUFの攻撃を受け、派遣団兵士4名が死亡、12名が負傷、およそ500名が拘束。これだけの人数の平和維持活動要員の一斉拘束は、史上まれでした。

 その後、国連は平和派遣部隊を増派します。また、駐在英国人の救出を目的に、英国が軍隊を派遣します。 英国は本心、内戦の深みに入る事を恐れ、1週間ほどで撤退する計画でした。しかし、平和維持軍増派完了までの駐留に方針が変更されました。旧宗主国(植民地支配国)として、反政府勢力を押さえ込もうとする政府軍、平和維持軍を見捨てる事が出来なかったのです。

 

◆チャイルド・ソルジャー

 2000年11月、シエラレオネ政府とRUFの停戦が合意。2002年1月、カバ大統領は、武装解除完了を宣言。3月には国家非常事態終了が宣言され、1991年以来7万5千人以上の死者を出した、内戦が終了しました。2002年以降、経済は順調で、農業、鉱業の回復により、国の経済成長率も2008年まで、毎年5~7パーセントの伸びを示しています。

 しかし、11年に及ぶ内戦の後遺症でもっとも深刻な問題は、チャイルド・ソルジャーの心のケアです。RUFによって誘拐され、反政府ゲリラとして兵士に仕立てられた子供たちは、時に両親を殺害し、親戚の拷問や処刑を、強要されました。ほとんどの子供兵士が、一般市民殺害の経験があります。また恐怖心を抱かないように、麻薬が与えられました。そのため、元少年兵士はその多くが、麻薬中毒者だと言われています。

 幼少期、残酷な場面に何度も遭遇し、その手で殺戮を強要されたトラウマを、消し去る事は容易ではありません。このような過去を持つ元少年兵は、シオラレオネ国内に5,000人以上いるとされています。彼らの心を治療するための国際的な協力が、さらに必要であり、再び、このような非人道的政策を掲げる、過激派の台頭を許さないためにも、世界が注意深く見守っていかなければならないと思います。

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誰にでもわかる世界の紛争(その10)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”スーダン”

 

◆スピルバーグの決断

 2008年8月、北京オリンピック開会式、閉会式の芸術顧問を務める予定であった、映画監督、スティーブン・スピルバーグ氏が、開催6ヶ月前にその職を辞しました。

 スーダン西部、ダルフールへの人権侵害を行うスーダン政府を支援する中国に対する抗議でした。世界で名の知れた映画監督の訴えで、ダルフールの悲惨さが世界に広く知られるようになりました。

 

◆スーダン内戦=南北紛争+西部ダルフール紛争 

 スーダン共和国の面積はアフリカ大陸最大で、日本の約7倍です。人口およそ4,500万人。

 スーダンの問題は、2つに分けて考えなければなりません。

 1つは南北紛争で、南部のキリスト教徒VS北部のイスラム教徒の内戦です。もう1つは西部のダルフール紛争で、アラブ系VS非アラブ系の争いです。

 コフィー・アナン前国連事務総長が「世界最大の人道危機」と呼んだこのダルフール紛争は、2003年以来続いています。

 

◆南北紛争

 スーダンは16世紀、アラブ勢力の侵入を受けて、スンニー派イスラム教の国になりました。ただし、それは人口75パーセントを占める北部住民であり、南部は今でも、キリスト教と伝統宗教が信仰されています。

 1899年から1956年まで、スーダンを植民地支配した英国は、マラリア予防を名目として、北の者が南へ、南の者が北へ行く事を違法としました。広いスーダンの土地を、1つにまとめて支配する困難を知っていたので、分断統治を行ったのです。これが、南北融和を阻み、今なお続く南北分裂の元凶となりまし た。

1956年、独立。政権の中心になったのは、イスラム教を信仰する北部のアラブ人で、彼らはキリスト教徒や非イスラム系住民を支配していきます。南部住民は、政府への反感を募らせ、独立前年から南北の内戦が勃発します。

1972年、政府は南部に自治権を与えます。ところが、南部に石油が発見されると、1983年その自治権を剥奪し、イスラム法をスーダン全土に導入し、イスラム化を推進します。

 

◆2005年、包括的和平協定が結ばれたが・・・・

 これに強く反発する南部は、スーダン人民解放軍(SPLA)を設立し、政府との内戦を拡大して行きます。南部の油田を守るため、政府はアラブ系住民に武器を与え、南部の村では略奪や殺人が繰り返されました。死者およそ200万人を出しました。

 米国を中心に、国際社会の積極的関与で、2005年、包括的和平協定が結ばれ、22年にわたる南北の内戦は、一応の決着がつきます。この協定に従い、南部に自治政府が置かれ、南部の油田収入を北部が独占できなくなりました。

 2010年4月、国政選挙、複数政党による大統領選挙が行われました。この選挙は、多くの人権侵害を残し、言論に対する著しい制限、選挙監視人に対する脅迫、暴力行為、逮捕も横行しました。しかし、これらの人権侵害は政府によって隠蔽されました。

 選挙の結果、現職のオマル・アル・バシール大統領が再選されました。

 

◆独立住民投票

 2005年協定のもう1つの柱である、南部独立を決める住民投票は、2011年1月9日から15日に実施されました。

2月7日に最終結果が公表され、全地域の開票結果は独立賛成が98.8パーセントでした。予定通り進めば、2011年7月9日、南部スーダンが正式にスーダンから独立し新しい国家15日にが誕生します。アフリカ史上54番目の国家誕生となります。

 また、アフリカ史上初めて、植民地支配時代の西洋列強による国境線以外の国境線、アフリカ住民の決定によって決められた国境線の誕生です。北部スーダンのオマル・アル・バシール大統領も南部の意思を尊重する声明を発表しています。新国家名は「南スーダン」が考えられているようです。

 

◆石油利権をめぐって

 独立住民投票の結果によりアフリカ最大の国家解体が決まったのですが、南北境界線上にある油田地帯アビエイ州は今も帰属先未解決の地域です。2011年1月の独立住民投票と同時にこの地域の帰属先を決める住民投票が予定されていました。しかし有権者資格の問題で双方が合意に至らず、同時実施は見送られたのです。南北問題の最も解決困難な問題の1つが先送りされたのでした。

 石油利権について言えば、油田は南部に集中、輸出設備のパイプラインは北部に存在している。石油収入は南北双方にとって死活問題であるのです。石油の豊富なアビエイ問題が解決されないまま南北共同管理下にあります。

しかし、アビエイの領有権をめぐる南北軍の衝突する中、2005年に終息した南北紛争の再発が懸念されています。

 

◆ダルフール紛争

 南北紛争が、北部のイスラム教徒VS南部のキリスト教徒+アミニズム信仰者、という、少なくても表面的には宗教的な争いですが、ダルフール紛争は、同じイスラム教徒同士の、アラブVS非アラブの民族的な争いです。

 ダルフール地方は、スーダンの中でもとりわけ非アラブ系の貧困層が多く、さまざまな面で、北部中央政府から見捨てられた存在でした。

 2003年2月、ダルフール武装勢力が、スーダン政府に対して武装闘争を開始。バシール政権が、政策面でダルフールの人々を差別してきたと、武装勢力は主張します。 これに対してスーダン政府は、反政府勢力だけでなく、ダルフール一般市民に対して、民族浄化とも思える非人道的な一掃作戦に出ます。

 スーダン政府軍が空爆を、政府の支援を受けたアラブ系民兵組織、ジャンジャウィードが地上戦を担当し、ダルフールの村を次々と破壊。多くの民間人が犠牲になっています。民兵を使う事によって、政府は民兵の行動までコントロール出来ないという言い訳です。

 今なお続く戦闘で、およそ260万人が国内避難民に、30万人以上が死亡、数十万人が、隣国チャドで難民となっています。

 

◆日本のお金も・・・

 2009年3月、ダルフールでの人道に対する罪と戦争犯罪容疑で、国際刑事裁判所(ICC)はバシール大統領に対して逮捕状を出しました。政府は 対抗処置として、10以上の国際人道団体をダルフールから追放しました。これにより国際援助が、ますます困難な状態となっています。

 しかし、バシール政権は、中国の強い後ろ盾により、大統領は逮捕を免れています。スーダンの豊富な石油の3分の2は 中国に、そして中国は、スーダン政府に武器を売っています。中国は、国連安全保障理事会でスーダン政府を擁護しています。

 これが、スピルバーグ氏に、「良心の呵責から、芸術顧問を引き受けられない。」と言わしめたのです。また、中国に次ぐ石油輸入国は、日本です。我々の望まないところで、日本のお金が、民間人の悲劇に使われている事も、少し頭に入れて置きたいと思います。

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誰にでもわかる世界の紛争(その11)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”北アイルランド”

 

◆アイルランドの一部が

 我々が普通に言うところの英国、あるいはイギリスの正式名称は、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」英語では「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland 」でUKと略して言われる事がよくあります。   

 地図で見れば、このグレートブリテン島の西隣にアイルランドという独立国があります。

 北海道ほどの面積を持つこの島の北東部だけが、英国の1部になっています。

 なぜでしょうか?

 

◆同じキリスト教徒の間で! 

 英国はプロテスタント、アイルランドはカトリックの国です。 英国領北アイルランドはアイルランド島の約6分の1にあたり、およそ170万人が暮らしています。その3分の2がプロテスタントで、残りの3分の1がカトリックです。    

 プロテスタント住民は、同じ宗教、同じ民族(アングロサクソン)である英国人として生活する事を望んでいます。それに対して、カトリック住民は同じカトリック教徒であり、同じ民族(ケルト人)であるアイルランド本国との合体を望んでいます。

 

◆英国にとどまった北アイルランド

 アイルランドは、ケルト人が独自の言語(ゲール語)を話し、カトリックを信仰して暮らしていました。ところが、12世紀半ば英国の支配が始まり、16世紀以降、文化も言語 も違う英国人の多くが、アイルランド北部中心に移住してきました。

 英国中央政府はプロテスタント住民を優遇し、先住のケルト人との間に摩擦が生じます。つまり17世紀以降、アイルランドへの本格的植民地支配とともに、プロテスタント系の移民が急増し、古くからアイルランドに住むカトリック系住民と対立するようになります。 これが、現在に続く北アイルランド紛争の始まりです。

 カトリック住民の抵抗運動により、アイルランドは1921年に自治権を得ます。また第二次世界大戦後、1949年に、念願のアイルランド共和国が樹立され、英国から完全に独立します。この時アイルラ ンド北東部6州(アルスター地方)だけが、継続して英国の1部として残りました。カトリック住民よりも英国から移住してきたプロテスタン住民の方が多くなっていたからです。

 

◆ドルイド教からケルト的カトリック信仰へ

 古来、ケルト人の信仰はドルイド教(Druidはケルト社会における祭司のこと)と呼ばれていました。占いや天文の知識、動物や、泉、また樹木を崇拝し、霊魂不滅や輪廻(人は死んでも生まれ変わるとの考え)の教義がありました。その多くはキリスト教に取って代わられましたが、近年、環境問題への関心が集まる中、自然に神が宿るというドルイド教の汎神論(Pantheism:一切万有は神であり、神と世界とは同一であるとする宗教観・哲学観)に関心が集まっています。

 2010年10月3日、数千年にわたり異端視されてきたドルイド教を、英国政府が史上初めて公認した事を、AP通信が伝えています。 432年、ローマ教皇からカトリック布教の命を受けた聖パトリック。彼は土着のドルイド教を否定することなく、ケルト人の宗教、文化との融合、調和に努めながら布教しました。 その熱心な活動によって、アイルランドのカトリック信仰は、ケルト的要素を取り入れて 定着、発展したと言えます。

 セントパトリックはカトリックへの改宗を促す際、キリスト教の中心的教義、教理である三位一体論(父と子と精霊が唯一の神であるとする考え)を説明する必要がありました。

 彼はアイルランドの国花であるシャムロックを用いて解説しました。「シャムロックの葉が3つに分かれているのは「三位一体」を表しているのだ。」と平易に説明し、キリスト教の布教に利用しました。ちなみに、シャムロックはアイルランドではどこでも見られるため、「エメラルド・グリーンの島」と呼ばれています。

 

◆東京でも! ニューヨークでも!

 毎年3月17日、聖パトリックの命日には世界中で大きなお祭りが開かれます。シャムロックを胸に飾るか、アイルランドのシンボルカラー、グリーンを身につけてのパレードは日本でも、東京、横浜、 京都、名古屋、熊本、松江等で行なわれるようになっています。

 松江にゆかりのある小泉八雲の日本国籍以前の名は、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)。一般にはラフカディオ・ハーンと呼ばれていますが、ラフカディオはミドルネームなので、本来はパトリック・ハーンが適当と思うのですが?

アイルランド系である事を隠したかったのか、キリスト教への懐疑か、彼自身、 パトリックを用いなかったと言われています。彼の父はプロテスタント系アイルランド人で軍医で母はギリシャ人でした。

 東京の原宿表参道では、およそ1000名がパレードします。 1992年に始まり、 アイルランド副首相、大統領、各駐日大使の参列もあり、日本最大のアイリッシュイベントになっています。

 故ケネディ大統領を始め、アイルランド系移民が多い北米の大都市でも、 盛大に祝われますが、世界で一番大きな聖パトリックのパレードは、ニューヨークで行われます。 ニューヨーク5番街のマンハッタン50丁目にある聖パトリック大聖堂は、全米最大のカトリック教会で、ロックフェラーセンターと向かい合って建っています。

 

◆カトリック住民の不満が

 1949年のアイルランド独立後も、北アイルランドでは、引き続きプロテスタント住民中心の運営が続き、カトリック住民の不満は募ってきます。

 その反発の中心になるのが、20 世紀初頭の義勇軍に始まるIRA(Irish Republic Army)アイルランド共和軍で、アイルラン ド全島統一を目指すカトリック系軍事組織として、独立以降、プロテスタントへ断続的テロ行為を繰り返します。

カトリック系アイルランド共和軍「IRA」に対抗してプロテスタント系アルスター義勇軍が設立されました。

 IRA押え込みのため、英国は治安部隊の常駐も決定。 この英国政府の強行策に対抗し、IRAのテロ活動はむしろ過激化していきます。その範囲は北アイルランドだけでなく、英国本土のロンドン金融街、商店街、ターミナル駅などに及び、テロを含む武装闘争は、ますますエスカレートし、多くの市民が犠牲になりました。

 

◆IRA の内部分裂

 1998年4月、英国政府とアイルランド共和国によるベルファスト合意が成立しますが、 IRA内部の分裂は大きくなります。IRA主流派の対話路線に不満分子が反発。同年8月、北アイルランドの繁華街で爆破事件を起こし、29人が死亡する惨事となり、数ヶ月前の合意に水をさす事になります。

 双方の和平への努力により、2005年にIRAは、武装闘争終結を宣言し、武装解除を決断します。しかし、和平反対派「真のIRA」は停戦宣言を拒否しています。2009年3月には英国兵6名が殺傷され、あらたな火種を抱えたまま現在に至っています。

 

◆真相究明委員会

 1972年1月30日、英国からの分離とアイルランドへの併合を求めて、カトリック系住民がデモを行っていました。そのデモに英軍が発砲し、14名が死亡しました。これは 「死の日曜日事件」と呼ばれ、北アイルランド紛争における悲劇の1つです。

 この事件の真相を調査する委員会が、1998年、トニー・ブレア元英国首相によって設置。2010年6月15日、関係者から2,500にも及ぶ証言を得て最終報告が発表されました。兵士側が最初に発砲しており、その行為は正当化できるものではないとの結論でした。

 この報告書を受けて、キャメロン首相は議会で正式に謝罪しました。あまりにも時間がかかりすぎているとの批判はありますが、紛争解決への前進であった事は否定できないでしょう。

 

◆共存共栄以外の選択肢は?

 アイルランドという独立国があるのですから、北アイルランドもアイルランドに所属し、それが嫌なら、プロテスタント系の人達は英国に戻って暮らせばいいのでは?と皆さんはそう考えるかも知れません。

 12世紀以来現在まで、何世代にもわたってこの地に暮らしている、英国系ユニオニスト(Unionism の Union とは英国との連合の意味で、その連合を維持し強化すべきであるという考えをユニオニズム、そういう考えを持つ人をユニオニストと呼びます。)にとって、北アイルランドが祖国なのです。

 英国との絆を大事にしながらも、英国人ではなく、またアイルランド人でもない、北アイルランド人としてのアイデンティティが出来上がっているのです。

 その意味で、北アイルランドは一定の自治を維持するなかで、カトリック系とプロテスタント系がアイルランド、及び英国本国との関係を良好に保ちながら、共存共栄して行く以外に、道は存在しないと思います。

 

◆エリザベス女王の訪問

 2011年5月17日から20日までの4日間、英国のエリザベス女王がアイルランドを初訪問。独立の為に命を落とした市民の記念碑に献花しました。英国との戦いで亡くなった人達への女王の哀悼でした。過去の英国支配への抗議から女王の訪問に反対する人もいるなか、それでも、1911年以来100年ぶりの英国君主の訪問は2国間の今後の和解促進につながったと、私は考えています。

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誰にでもわかる世界の紛争(その12)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”バスク”

 

◆「言語の孤島!」「ヨーロッパの孤立言語!」

 ピレネー山脈の西端、イベリア半島のスペインとフランスにまたがる地域はバスク地方と呼ばれています。スペインともフランスとも違った言語、文化を持つバスク人が古くからこの地に暮らしています。

 現在ピレネー山脈をはさんで、スペイン側に275万人、フランス側に25万人、住んでいます。バスク人はインド・ヨーロッパ語族のヨーロッパ進出以前からこの地に居住しており、バスク語は周辺に同類言語がありません。 現存する世界の5,000言語を、コンピューター解析で17の系統に分類しても、バスク語はどの系統にも入らない事が解りました。まさに「言語の孤島」です。

 「バスク語に似た言語はなし、関係ある言語もなし。世界には、バスク語を話す人と話さない人の2種類しか存在しない。」ある言語学者の言葉です。少なくてもインド・ヨーロッパ語であるスペイン語やフランス語とは全く異なる独立語であることはよく知られています。

◆聖母マリア信仰

 カトリックでは、聖母マリア(イエスの母)に祈りを捧げる事があります。多神教、偶像崇拝を異端とする一神教で唯一神を信じるキリスト教の教えとは相反するように思われます。「マリアは神の母であり、神の母マリアも神である。」でしょうか?

 マリア信仰の根源にはいくつか説があります。その1つは、イエスに最も近くにいた人物マグダラのマリアへの信仰から来るものと言う考えです。イエス亡きあと虐げられたマグダラのマリアはパレスチナから海を渡り現在のフランスへ、南仏の洞窟で祈りの生活を送ったとの言い伝えがあります。このマグダラのマリアへの崇拝がカトリックのマリア信仰の起源であるとの考えです。

もう1つ。古代バスクでは自然に存在する物に精霊が宿ると考えられていました。その精霊の女王がマリ(Mari )で人々の不正を罰する事ができました。3世紀以降バスクにキリスト教が伝えられ、バスクの精霊マリと聖母マリアが同一視され、マリア信仰、カトリックの普及に大きく貢献したと考えます。

 前回の北アイルランドで述べたように、アイルランドでカトリックを広めたセントパトリックは、土着のドルイド教を取り込んでケルト的カトリック信仰への改宗を進めました。

 キリスト教が世界宗教に発展したのは、一神教でありながら、それぞれの伝統宗教を取り入れながら普及活動を進めたことに起因するのです。

 

◆クロマニョン人の子孫?

 バスク人の起源については、諸説ありますが、クロマニョン人の末裔、子孫ではないかとの説があります。クロマニョン人は、フランス南西部で発見された現生人類で、ヨーロッパ人の祖先と考えられていて、バスク人はピレネー山脈周辺にいたクロマニョン人が祖先ではないかとの説です。

 バスク人の血液型は特徴的で、圧倒的にO型が多く、全体の60パーセント、またRH-の割合が世界で一番多い民族としても知られています。この事がバスク人のルーツとどのように関係するかは解りませんが、興味深い現象に思えます。

 いずれにせよバスク人は紀元前3世紀のローマ軍侵入以前からの古い先住者であり、バスク地方には旧石器時代の遺跡も残っています。

 

◆フランシスコ・ザビエルも

 少数民族であっても、バスク人のなかには、世界史上、大きな足跡を残した人が多くいます。バスク人は古来より航海術にたけており、スペイン無敵艦隊にも多くのバスク人がいました。

 マゼランの死後、世界一周を引き継いだ、ファン・セバスティアン・エルカーノはバスク人でした。

 現在でも敬謙なカトリック信仰を持つ人が多いバスク人ですが、イエズス会の創設者、イグナディウス・デ・ロヨラ、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルもバスク人です。

 ちなみに、バスク人をイメージする絵には、ベレー帽姿がよく登場します。バスク地方がベレー帽の故郷、発祥の地です。

 

◆分離、独立を!

 19世紀前半まで、バスクは自治を保ち、均質的に、独自の文化、言語を維持してきました。19世紀後半の産業革命以降、バスク地方産出の鉄鉱石で、英国との貿易が活発になります。バスクは重工業地帯として発達しました。

 しかし、産業の隆盛は、新たな雇用の増大をもたらし、バスク地方にバスク人以外の民族が大量に流入する結果となります。

 長年にわたって、同じ文化を持つ民族が暮らしてきた世界に、他の民族が急に入り込んでくると、今まで暮らしていた人達は、今まで感じなかった、自分たちの伝統への強い思いが感じられてくるようです。それは、自分たちの築いてきたものが壊されるのではないか、バスク・アイデンティティ喪失への恐怖となって現れるのです。

 民族の尊厳や伝統文化の破壊を恐れたバスク人達が、民族運動をおこし、バスク民族国家を作ろうという機運も高まってきます。

 

◆ピカソとゲルニカ

 バスクの民族運動は高まりを見せ、スペイン内戦(1936年7月、スペイン共和国政府とフランコ将軍派との間に起こった内戦。1939年、ドイツ、イタリア両国の支援を受けた将軍派の勝利に終わる)が始まった、1936年、バスク自治政府が樹立します。

 しかし、内戦で政府軍についた自治政府は翌1937年、将軍派によって倒され、バスク語の使用は禁止。自治獲得運動は弾圧されていきます。

 2008年7月、私は出張先のマドリードの国立ソフィア王妃芸術センターで、パブロ・ピカソ作「ゲルニカ」を鑑賞する機会に恵まれました。絵画「ゲルニカ」の前には、常に警備員が配置されています。

 1937年4月26日、バスクの都市ゲルニカは、フランコ将軍の要請により、ナチスドイツの空爆を受けます。史上初めての都市部無差別空爆とも言われています。バスク人、ピカソはこの悲報を滞在中のパリで聞き、キャンパスに向かい、憤慨と怒りを作品にぶつけます。そして「ゲルニカ」の絵が生まれました。死んだ子を抱き泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったようにいななく馬などが戦争の悲惨さを訴えています。

 ピカソ渾身の作品で、絵の前に見学者の絶える事はありませんでした。

 

◆急進派 ETA (バスク祖国と自由)の伸張

 1939年、スペインのフランコ独裁政権が始まると、自治権を奪われたバスクは、厳しい弾圧下に置かれます。過酷な抑圧は過剰な反応を招き、武力闘争も辞さないバスク人急進派ETA(バスク祖国と自由)が1959年に結成されます。バスク人居住地域を1つの独立国とて分離させる事を目標に掲げたのです。

 ETAは、マドリード、バルセロナ等の大都市だけでなく、スペイン全土で爆弾テロを行い、現在までに850人以上が犠牲になっています。

 1975年、フランコ将軍の死とともに、民主化が進み、1979年にはバスク自治州となり、自治権を回復します。しかしあくまでも、自治でなく「バスク独立国」を掲げるETAは、テロ活動をむしろ加速させます。

 1980年には、1年でおよそ100名が殺害されました。1987年6月19日、バルセロナのスーパーマーケット地下駐車場の車にしかけられた爆弾が爆発。買い物客15名が死亡、40人が重軽傷、死者には小さな子供も含まれていました。

 ETAが犯行声明を出します。 当初ETAを支持していた多くのバスク人も、相次ぐ一般市民を巻き込んだテロに、また1998年にETAがスペイン政府と結んだ停戦を一方的に破棄してテロ活動を再開するなどにより、ETAへの支持に変化がおこってきます。

 また、フランコ政権下での弾圧で、むしろバスクへの同情をもっていたスペイン国民も、ETAへの批判を強める世論となってきました。

 

◆「停戦、そして停戦破棄」の悪循環から

 2006年3月、ETAはスペイン政府との合意により無期限停戦を発表。しかし数ヶ月後に停戦を破棄。2009年7月30日には、マジョルカ島で車が爆発、2名が死亡、スペイン当局はETAの犯行と断定し、空港、港を一時閉鎖しました。その後スペイン、フランス治安当局による徹底的な合同捜査により、ETA軍事部門の最高指導者の多くが逮捕され、ETAの組織は弱体化しました。

 2010年9月5日、ETAはこれ以上の武力行使の停止を宣言。BBCや地元メディアがその声明を放映しました。組織に残る過激派をどのように押さえるかが、今後の大きな課題です。 しかしなによりも、現在のバスク人の大多数が、スペイン政府との民主的和平的交渉による紛争の解決を望んでいる、その事実が大きな後押しにならなければならないでしょう。

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誰にでも分かる世界の紛争(その13)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”東ティモール”

 

◆「21世紀最初の独立国」

 東ティモール民主共和国 (左写真の濃緑部分)は、オーストラリアとインドネシアにはさまれたティモール島の東半分にあたる小さな国で、国土は1万4,000平方キロメートル、岩手県くらいの面積で、人口およそ110万。

 美しい海に囲まれ、雨期(11月~4月)は濃い緑で覆われ、毎日激しいスコールがあります。

 乾期(6月~9月)は一転して、茶褐色の島に変身するようです。

 2002年5月20日、21世紀最初の独立国として誕生しました。首都はディリ。世界最大のイスラム人口をかかえるインドネシアに対して、東ティモールは、人口の99パーセントがカトリック信者です。主要産業は農業で、現在輸出品としては、コーヒーが挙げられますが、いまだ国民の多くは貧困と失業に苦しんでいます。

 

◆紛争の始まりは?

 16世紀前半、ポルトガルが白檀(びゃくだん)、香辛料を求めてティモール島を征服、植民地化します。白檀は甘い強烈な芳香を放つ樹木で、ティモールが特産地です。 中国、インドでは古来より、宗教行事や葬儀において珍重されてきました。ポルトガル領マカオを拠点とした対中国貿易で、ティモール産白檀はポルトガルに莫大な富をもたらしたといわれています。

 その後、インドネシアを支配していたオランダがティモール島にも進出。1859年のリスボン条約で、ティモール島は東西に分割されます。地元住民の意思を無視した、2国間の勝手な領土が取り決められ、21世紀まで続くこの紛争は、ここから始まります。

 1859年、西ティモールがオランダ領に、東ティモールはポルトガル領になります。第2次世界大戦中、日本はティモール島全島を占領しますが、戦後、西ティモールはインドネシアの一部として独立、東ティモールはポルトガルの支配に戻りました。

 

◆東ティモールのカトリック

 2011年現在、人口2億4千万の9割がイスラム教徒のインドネシアに対して、人口110万の東ティモール住民のほぼ100パーセントがカトリック教徒です。

1973年の東ティモールにおけるカトリック人口は30パーセント以下で、大半の人はアニミズム(民間宗教)信仰でした。1976年のインドネシアによる占領以降、カトリック信徒が急増し、1990年にはカトリック人口は90パーセントになりました。

世界最大のイスラム人口を持つインドネシアですが、他宗教には比較的寛容で5つの主なる宗教から1つを選び登録する制度を取りました。多くの人達は

長年のポルトガル支配からカトリックを選んだと言われています。

しかし、カトリック人口増加の原因は、教会が東ティモール住民を守る為に果たした役割にあると思います。インドネシア軍の人権侵害に対して真っ向から異を唱え、ノーベル平和賞を受賞する司祭も出てきました。

教会に対する住民の信頼が高まったのです。カトリック教会がミサ(お祈り)に現地の言葉を用い東ティモール住民のアイデンティティー形成に寄与したことも大きいのではないでしょうか?

日曜ミサには熱心な信徒が多く参加しています。

 

◆住民の意思は一枚岩?

 1974年、ポルトガルにクーデターが起こると、ポルトガル新政権は、東ティモールの植民地支配を放棄し、400年に及んだポルトガル支配が終わる事になります。 東ティモールでは独立の機運が高まってきます。本国から遠く離れ、もはや植民地を維持する力のないポルトガルは、東ティモールを一刻も早く独立させ、手を引きたかったのです。

 ポルトガルは、独立への道を強く後押ししますが、住民の意思は一枚岩ではなかったのです。

 住民の考えは大きく3つに分かれました。

1.東ティモール独立革命戦線 (FRETILIN,フレティリン)

 即時独立を掲げる、独立派。ポルトガル植民支配に反対運動を続けてきた人達が中心に結成されます。

2.ティモール民主同盟 (UDT)

 段階的な独立を掲げる派。ポルトガル植民地経営に協力してきた体制派で、あくまでもポルトガルとの関係を重視し、時間をかけて独立への体制を固めていくとの考えを持つ人達の集団です。新ポルトガル派。

3.ティモール人民民主協会 (APODETI)

 インドネシアとの合併を求める少数派。新インドネシア派。

 1975年、東ティモール独立革命戦線(フレティリン)とティモール民主同盟(UDT)との内戦、軍事衝突が起こりフレティリンが勝利。11月28日「東ティモール民主共和国」の独立を宣言します。

 

◆インドネシアの侵略、その時国際社会は?

  左翼政権、フレティリンによる独立宣言がなされた翌月、インドネシアによる東ティモール侵攻が始まり、すでに支配していた西ティモールに加え、1976年、ティモール島全体を自国領土に併合します。インドネシア軍による無差別殺害が行われ、10万人以上が犠牲になりました。

 このインドネシアによる侵略、占領に対して国連は「即時撤退」を求めますが、インドネシアは無視し続けます。 米国はインドネシアの侵略を黙認します。日本も結果として、インドネシアの侵略を支持します。なぜでしょうか?

 1975年4月、カンボジアの首都プノンペンが共産党の軍隊によって陥落。南ベトナムの首都サイゴンが北ベトナム軍によって陥落。8月にはラオスが共産党の支配を受け、インドシナ半島3国が一気に共産党政権下に入ります。

 これ以上の共産化を避けたい米国は、反共政策を掲げるスハルト(インドネシア大統領、30年におよぶ独裁政権を維持)インドネシア政権の人権侵害に、あえて目をつむる事で、東ティモールの共産化の可能性を封殺しました。

 1976年から1982年まで、国連はこの併合を認めないとする決議を毎年のように採択。 しかし、米国はインドネシアを「反共の砦」として、国連協議をそのつど回避してきました。東ティモールは東西冷戦の犠牲者と言えるでしょう。

 当時インドネシアへの最大援助国であった日本は、紛争解決の一端を担える機会があったと思えます。が、結果として米国に同調し、独自でインドネシアへ圧力を加える事はありませんでした。

 日本はインドネシアから原油、天然ガスを大量に輸入していました。また、石油輸入の大半を中東に依存する日本は、マラッカ海峡を石油輸送の生命線として、インドネシアの安定を考慮しました。国際政治で力を発揮するより、経済関係へのプライオリティ(優先順位)を重視した事を、歴史ははっきりと証明しています。

 

◆サンタクルス事件 

 独立を妨げられた東ティモールは、インドネシア支配に対して、激しく抵抗。スハルト政権は容赦なく弾圧します。

 1991年11月11日、ディリのサンタクルス墓地で、インドネシア政府軍による大虐殺が起こり、その映像が世界のメディアで流されました。

射殺された独立派青年の死を悼む葬列にインドネシア国軍が発砲しました。

多くの若者が血まみれになって倒れる様子は、世界に衝撃を与えました。300人以上が犠牲になったと言われています。

 日本でも大きく取り上げられ、この事件以降、東ティモール独立運動は多くの人に知られるようになりました。

 この事件以降、東ティモール独立運動は多くの人に知られるようになりました。

東ティモールの人権問題は世界の注目を浴び、国際的なインドネシア包囲網ができあがりました。

 

◆スハルト政権崩壊へ

 1998年、長期独裁政権でインドネシアを支配したスハルト大統領が、民主化を求める学生運動をきっかけに、退陣することになります。後任のハビビ大統領は方針転換し、東ティモール独立を容認する姿勢に変わりました。

 1999年、住民投票が国連監視のもと実施され、東ティモール住民の80パーセントが独立を支持しました。

 ところが、独立に反対する少数勢力の過激な行動が始まり、多数の犠牲者が出ました。独立に反対する人のほとんどが、1976年に始まるインドネシア統治時代に、東ティモールへ移住して、インドネシアとの関係が深い人です。

 長期にわたり、東ティモールを支配したポルトガル領時代には、工業化がまったく進みませんでしたが、インドネシアによる短期統治時代に、社会資本の整備がゆるやかに進んだ事は事実です。もともとの産業基盤の脆弱さで、前途困難のなか、インドネシアに属する方を望む人もいました。

 混乱収拾のため、国連安全保障理事会がPKO(国連平和維持活動  Peace keeping Operations )派遣を決定し、治安回復に乗り出します。国連管理下のもと、独立の準備が少しづつ整えられ、2002年の独立へとつながっていきます。

 

◆ゼロからのスタート

 2002年、多くの苦難を経て東ティモールは独立を果たしました。500年もの間、他国の支配下にあった人々にとって、自分たちの国を持つとはどういう事かを理解する事は容易ではありませんでした。 失業率80パーセントからのスタートでした。

 2006年には、待遇改善を求める国軍兵士による暴動が広がり、その鎮静化のため、オーストラリア軍を中心に治安維持軍が派遣されました。

 2008年にはホルタ大統領が反政府集団に銃撃され、政府は非常事態宣言を発表。国連のPKOが延長されました。

 国際社会の協力により、東ティモールは少しずつ治安を回復し、国づくりが進んでいます。たとえ小さな国でも、自分たちの国家を維持し、国際社会のなかで自立できれば、今後の新国家樹立にも大きなモデルケースとなるはずです。

 東ティモールの一本立ちは、住民の努力と共に、国連を中心として国際社会に与えれた、乗り越えなければならない課題であると思います。

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誰にでも分かる世界の紛争(その14)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”ボスニア・ヘルツェゴビナ”

 

◆ヨーロッパの火薬庫とサラエボ事件

 学生時代に世界史が苦手であったと公言する人でも、バルカン半島(アドレア海を挟んで、イタリアと対峙)が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたこと。

 また、そのバルカン半島で発生した「サラエボ事件」により、第一次世界大戦が勃発したことは、耳にしたことがあるはずです。

火薬庫とは、火薬を貯蔵する建物。爆発の危険があることから、紛争発生の危険性が高い地域を、比喩的に指します。

陸続きで隣国と接する、ヨーロッパ小国は、民族的対立や大国の侵略に対する危機に、常にさらされてきました。「ボスニア・ヘルツェゴビナ」紛争には、そのような背景があるのです。

 

◆ユーゴスラビアという国は今?

 1929年のユーゴスラビア王国に始まり、1943年、ユーゴスラビア民主連邦。1946年、ユーゴスラビア連邦人民共和国。1963年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国。そして、1992年、ユーゴスラビア連邦共和国ができるものの、2003年2月、「セルビア・モンテネグロ」となり、ユーゴスラビアの国名が消滅します。

 

◆ヨシップ・ブロズ・チトー大統領(1892~1980)

 一つの国家(ユーゴスラビア)、2つの文字(ラテン文字、キリル文字)、3つの宗教(カトリック、東方正教、イスラム教)、4つの言語(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語)、5つの民族(スロベニア人、セルビア人、クロアチア人、マケドニア人、モンテネグロ人)、6つの共和国(スロベニア、セルビア、クロアチア、マケドニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ)、そして、7つの国境を接するモザイク国家(モザイクのように、様々な人種・民族、または宗教を持つ集団が入り交じって、融け合わない状態の国家のこと。これらは、互いに対立が絶えず、世界各地で紛争や内戦問題などの火種になっていることが多い)。このユーゴスラビアを強烈なカリスマ性で紛争を押さえ込んだのが、チトー大統領です。共産主義国家でありながら、ソビエトとも堂々と渡り合い、西側とも協調していきます。ソ連の脅威という外圧から、自らを守る為の全民族結集を旗印に、過去の内紛を封印させました。第二次世界大戦直後から、1980年に亡くなるまで、35年間、ユーゴスラビアを支配しました。

 

◆ボスニア・ヘルツェゴビナ人?

 1980年、カリスマ性を持つ、偉大なリーダーによくあるケースですが、チトーもまた、後継者を残すことなくこの世を去ります。その後、ベルリンの壁が崩壊。ソ連崩壊にも影響を受け、それぞれの民族が、自分たちの独立国を求めて動き出します。

 旧ユーゴスラビアでは、5つの民族が存在すると説明しました。それぞれの民族が大多数を占める共和国がありました。しかし、共和国の数は6つでした。

ボスニア・ヘルツェゴビナだけは、ボスニア・ヘルツェゴビナ人による共和国ではありません。というよりも、ボスニア・ヘルツェゴビナ人というのは存在しません。ボスニア・ヘルツェゴビナはクロアチア人、セルビア人、そして、モスレム人の3つの民族によって構成されていました。モスレム人というのは、元々はクロアチア人、セルビア人でトルコ支配の下、イスラム教に改宗した人々です。民族というには少し疑問ですが、ほぼ一民族に相当する勢力であるので、同等に扱われます。

 

◆それぞれの宗教は?

 スロベニアとクロアチアはカトリック(キリスト教)、セルビアとモンテネグロは東方正教会セルビア正教(キリスト教)、マケドニアは東方正教会マケドニア正教(キリスト教)。そして、ボスニア・ヘルツェゴビナは前述のように、3つの民族に分かれており、カトリックのクロアチア人、セルビア正教のセルビア人、イスラム教のモスレム人の混在です。共産主義と宗教は、相容れない原則にも関わらず、チトーは政策として、宗教を民族のアイデンティティとして認めたのでした。民族構成におけるセルビア人の割合が、大きくなり過ぎないよう配慮したのです。「大セルビア主義」を押さえるため、以前には大きな意味で、セルビア人と考えられていた、マケドニア人やモンテネグロ人にも彼らの民族、宗教を公認。改宗したイスラム教徒へも、モスリム人としての民族公認を行いました。

 

◆旧ユーゴスラビア連邦解体

 1991年、スロベニアとクロアチアが独立。1992年にはマケドニアが独立。この年の4月、セルビアとモンテネグロが一つになり、「ユーゴスラビア連邦共和国」が独立、チトーによって作られた旧ユーゴスラビア連邦に対して、新ユーゴスラビア連邦と呼びます。新ユーゴは、実質的にはセルビア人の国でした。この新ユーゴ連邦は、2003年には緩やかな国家連合に移行し、国名も「セルビア・モンテネグロ」となり、新ユーゴは消滅します。2006年には、モンテネグロが独立し、セルビアとモンテネグロは、独自の国となりました。

 

◆ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア紛争)1992年~1995年

ボスニア戦争

 他国の独立に刺激され、1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言。4月には、ECが独立を承認。5月には、国連にも加盟しました。しかし、クロアチア人、セルビア人、モスレム人三民族合意のもとでの行動ではありませんでした。2月29日から3月1日まで行われた、独立の賛否を問う住民投票にはセルビア人の大半が棄権、モスレム人とクロアチア人による、90%以上の独立賛成の結果に基づく独立宣言でした。独立と同時に内戦となります。内戦勃発時の人口構成は430万人の人口のうち、ムスレム人約45%、セルビア人約30%、クロアチア人約20%でした。政治権力は多数派のムスリム人とクロアチア人に委ねられたため、冷遇されたセルビア人は、ボスニア・ヘルツェゴビナからの分離、独立を画策し、武力に訴えるようになったのです。このセルビアを援護したのは、隣国の新ユーゴでした。自らの勢力拡大と、同胞であるセルビア人を助けるため、積極的に紛争に介入します。

 

◆デイトン合意

 この紛争では、「民族浄化」という言葉がよく使われました。異民族を排除し、一定の地域を民族的に単一にしようとする政策です。集団殺害、強制収容、また集団レイプも意図的、組織的に行われ、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦は、20万人以上の死者と、およそ200万人の難民を生み出しました。

 1995年、クリントン米大統領の調停により、3年半におよぶ内戦に終止符が打たれました。  

 同年11月、米国オハイオ州のデイトンで当事者の代表が集まり、内戦終結のための平和協定に仮調印、12月14日、パリで和平が公式に合意(デイトン合意)・調印され、戦争は終息しました。

 合意により、ボスニア・ヘルツェゴビナは一つの主権国家ですが、ムスリム人、クロアチア人からなる「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」(領土の51%)とセルビア人による「スルプスカ共和国」(領土の49%)の2つの国で構成され、住み分けられるようになりました。それぞれが独自性を持つ体制を形成しつつ、対外的には、一国として対処するとの合意です。矛盾だらけの体制であることを批判するのは容易です。しかし、この併存によって戦いは終わったのです。それが表面上であっても、一時的な平和で終わらせないためには、和解の努力が必要です。当初、それぞれが持っていた軍は統合されました。恒久的和平への道程は長いですが、その後押しをするのが、我々国際社会の責任だと思います。

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誰にでも分かる世界の紛争(その15)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”コソボ”

 

◆コソボ共和国は独立国?

 2008年2月17日、コソボ自治州議会は、コソボ共和国の独立を宣言します。どの国から独立したのでしょうか?

 セルビア共和国からです。ただし、2011年11月1日現在、セルビア共和国はその独立を承認していません。

 

◆国際社会は?

 2011年1月1日現在、コソボ独立を承認しているのは、国連加盟国193カ国のうち欧州、米国、日本を含む72カ国です。なぜでしょうか?

  

◆ヨコソボのアルバニア人とセルビア人

マザー・テレサ

 コソボは、バルカン半島中部の内陸部に位置し、北東をセルビア、南東をマケドニア、南西をアルバニア、北西はモンテネグロの国々に囲まれています。面積はおよそ1万平方kmです。現在、コソボ共和国の人口は220万人。9割がアルバニア人で、残り1割がセルビア人です。セルビア人は、セルビア正教を信じています。アルバニア人の大半はイスラム教徒ですが、ローマ・カトリックの信者も少数ですが存在します。

1979年、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサは、オスマン帝国領のコソボ州(現在のマケドニア)のアルバニア人で、カトリックの家庭に生まれています。イスラム教がほとんどで、キリスト教の中でも正教徒が多い、この地方では珍しい家庭環境でした。

 

◆アルバニア人が住むコソボがセルビア共和国に?

 1945年の旧ユーゴスラビア建国において、隣国にアルバニアという独立国がありながら、当時でも人口の大半がアルバニア人であるコソボは旧ユーゴスラビアの6つの共和国の一つ、セルビア共和国に組み込まれました。コソボはそのセルビア共和国の自治州として、6つの共和国とほぼ同等の自治権が与えられ、民族闘争は表面化しませんでした。旧ユーゴを35年間統治した、ヨシップ・ブロズ・チトー大統領の卓越した政治力によるものでしょう。事態は1980年のチトー死去によって大きく変貌します。

 

◆コソボ紛争の表面化

 チトー大統領の死後、東西冷戦の崩壊により、ソ連の脅威に対して、各民族が団結するという旧ユーゴの微妙なバランスが崩れてきます。また、その崩れかけた各民族の団結心を、新たにまとめあげる求心力を持った指導者は出ませんでした。

コソボ自治州でも、セルビア人の権利拡大を目指す「大セルビア主義」が高まってきます。コソボ自治州はセルビア共和国内にあるのだから、セルビア色にもっと染まるべきだと考え、アルバニア語の教育を禁止します。コソボ自治州が持っていた、独自の権限を奪い始めます。コソボに住むアルバニア人も、人口の9割を占める自分たちが、どうしてセルビア人とその文化に支配されなければならないのかという不満が高まってきます。当初は非暴力での独立を目指したアルバニア人も先鋭化してきます。コソボ自治州の分離独立をめざす武装組織「コソボ解放軍(KLA)」の動きも活発化します。

 

◆NATOによる空爆

 NATO軍の空爆により破壊された住宅地

 紛争の激化により、欧米が和平調停に入りますが、セルビアが拒否。米国を中心としたNATO軍が1999年3月、武力行使。1999年3月24日、セルビアに空爆を開始し、6月には停戦に至ります。停戦によりコソボ自治州は、国連の管理下に置かれました。

空爆開始前のセルビア側による攻撃で、アリバニア側に多数の犠牲者が出るとともに、大量の難民が隣国に流れました。その数は90万人ともいわれています。戦闘終了後、彼らはコソボに帰還し始めました。それと同時に、アルバニア人による報復が始まり、今度はおよそ20万人のセルビア人が、難民化しました。

ちなみに、NATO(北大西洋条約機構)とは西側(米国を中心にした欧米)の軍事同盟で、旧ソ連を中心とした東側諸国の軍事的脅威に対するものでした。冷戦崩壊後、NATOの任務は地域紛争処理に代わっています。前回のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、今回のコソボ紛争、アフガニスタン紛争(2001年)、最近のリビアへの介入があります。

 

◆コソボの歴史

 バルカン半島に位置するコソボは、古代ダルダニアと呼ばれていました。紀元1世紀からローマ帝国の領土となります。700年から1455年まで、中世セルビア人国家(現在のセルビアを中心とした中世の王国)の統治下。その後、1455年にオスマン帝国に征服され、1875年までオスマン帝国のコソボ州(現在のコソボとは領地が異なる)となります。

そして前述のように、旧ユーゴではセルビア共和国内の自治州として、一定の自治権を持っていました。その後、旧ユーゴ崩壊に伴ったセルビア共和国の独立により、コソボはセルビア共和国の一部となったのです。

 

◆コソボはセルビア正教の聖地 

 セルビア人が人口の1割しかいないコソボが、セルビア人にとって、どれほど重要であるのでしょうか?

 その土地の重要度は、自国民の数では判断できません。中世のセルビア人国家の中心にコソボがあり、中世に建造された聖堂や修道院が残されていました。残念ながらその宗教的遺跡の多くは、コソボ紛争でイスラム教徒のアルバニア人によって破壊されました。しかし、コソボはセルビア人にとって、セルビア正教の聖地であることには変わりありません。

 

◆コセルビア人にとってのコソボとユダヤ人にとってのマサダ?

 エルサレムから南へ下がった死海のほとりに、マサダの砦(とりで)があります。西暦70年、ローマ軍がエルサレムを奪った時、そのマサダの砦に3年間立てこもった、約千名のユダヤ人は、最後には自害しました。それ以降、国を失ったユダヤ人は2000年の間、流浪の民として世界に散らばっていくとの伝説が生まれます。イスラエルでは、男女に兵役がありますが、その入隊式では、「二度とマサダの悲劇を繰り返すな」と若者に諭されるそうです。オスマン帝国が、バルカン半島征服を目的に攻撃した時、セルビア人は自分たちの土地を守るために戦います。最後の激戦は、1389年の「コソボの戦い」で、セルビア人は奮闘しますが、ついにオスマン帝国に敗北。セルビア人指導者は殺害され、1455年、最終的にコソボは、オスマン帝国の支配下となります。コソボの戦いの敗北により、セルビアはオスマン帝国に約500年間の長期にわたる征服を許すことになります。その意味で、セルビア民族にとってコソボは、重要な土地と考えられ、コソボの戦いはセルビア民族の悲劇として伝説化されています。時代的、歴史的背景は違いますが、オスマン帝国とローマ帝国。私にとって、なぜかセルビア人にとってのコソボが、ユダヤ人にとってのマサダに重なり合ってしまいます。

 

◆もう一度、コソボ共和国は独立国?

 2008年2月17日、コソボ自治州議会は、セルビアからの独立宣言を採択しました。

 また、2010年7月22日には、国際司法裁判所がコソボのセルビアからの独立宣言が、国際法違反に当たらないと判断しました。その時の裁判長は、皇太子妃雅子さまの父・小和田(おわだ)恒(ひさし)氏でした。国連常任理事国である、米国、英国、フランス、そして、EUの主要国であるドイツや日本が、コソボ独立を承認しています。ところが、同じ常任理事国であるロシア、中国は反対の立場をとり、拒否権を持つこの2国の反対で、国際連合の安全保障理事会での承認は困難になっています。

 その他、スペイン、インド、キプロス等の国は、独立承認に反対です。もうすでに学んだように、これらの国々は、国内に少数民族の独立問題を抱えています。ロシアは、チェチェンやグルジアなどの問題。中国は、チベットやウイグル。スペインは、バスク。インドは、カシミール。キプロスは、トルコ系の北キプロス。コソボの独立承認が、自国の国内問題に飛び火することを恐れているのです。その意味では国際問題も、当然のことながら、それぞれが抱える国内の紛争と密接に関わっているといえます。

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誰にでも分かる世界の紛争(その16)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”チェチェン”

 

◆ヨーグルトを食べて長生き?

 トルコの北に黒海があり(相撲力士の黒海は、この地域の出身)、イランの北には、カスピ海があります。黒海もカスピ海も「海」と名がついていますが、実際には「湖」です。この二つの湖に挟まれた地域は、「コーカサス」と呼ばれています。一般にコーカサスという言葉から連想するのは、カスピ海に生息する、チョウザメから取れるキャビア。また、元気なお年寄りが住む長寿村があり、その長生きの秘訣がこの地方で食べられるヨーグルトにあるのではないか? との話題ではないでしょうか? カスピ海ヨーグルトやケフィアと呼ばれるコーカサス伝統の発酵乳は、よくマスコミにも登場していました。世界の長寿村といわれるところでは、発酵乳を食生活に取り入れているところが多いようです。しかし、コーカサスの100歳以上の人にインタビューすると、その多くはヨーグルトを食べていなかったという記事も発表されています。これには、乳業界の宣伝に乗せられているとの批判もありました。いずれにせよ、コーカサスに元気なお年寄りが多く暮らしていることは事実です。日本で長寿の人が多い沖縄と同じように、コーカサスでも大家族制度が残り、年配者は長老として社会の中で尊敬され、家族とともに楽しく食事をしているそうです。

 長生きに食生活は大事で、楽しみながら、皆で食卓を囲むといったことの方が、ヨーグルトよりも健康で、長寿に寄与しているかもしれません。

 

◆チェチェンの歴史

 16世紀末、イスラム教がチェチェンに伝わりました。現在もほとんどのチェチェン人はイスラム教スンニ派を信仰しています。イスラム以前の歴史についてはあまりよく解っていません。コーカサス全体の面積は日本より少し大きく、グルジア、アルメニアを除いてすべてイスラム教国です。この地域全体を網羅する統一国家の歴史はありません。チェチェン共和国は、黒海とカスピ海に挟まれた地域の北方、北コーカサスの要衝に位置し、岩手県ほどの面積におよそ100万人が暮らしています。18世紀末、ロシア帝国が版図(一国の領域)拡大をもくろみ、南下政策を強化させ、北コーカサス地域への侵略を本格化。これ以降チエェチェンとロシアの対立が始まります。コーカサス地域に勢力を伸ばすロシアに対して、長く、そして激しく抵抗を続けたのがチェチェン人でした。イマーム(イスラム教指導者)を中心に、60年以上抵抗を続けました。苦心を重ねたロシア軍は、ついに、1864年チェチェンをロシアに併合。しかしこれで、チェチェン人を含むコーカサスの人達の抵抗が終わったわけではありません。

 現在まで続くチェチェンのロシアに対する反感の根幹、対立はここから始まると言えます。

 

◆テイプ

 ロシアに征服されるまで、チェチェンには公式な政治組織はありませんでした。チェチェン人として、自分たちの言語や領土をもつ1民族にも関わらず、自治はそれぞれの村が担当していました。厳しい山々に囲まれ、外部との接触も遮断され、交通網の発達も阻害されてきました。古くから「テイプ」と呼ばれる氏族組織(部族、門閥)を基礎として、個々の氏族は尊敬される年長者によって、統率されていました。年長者への敬意と服従を土台とした家父長制度で、成り立っています。12代先の先祖の名を暗記するほど、血縁を大事にするようです。チェチェンにはおよそ大小160のテイブがあるとされています。戦時における相互防衛義務(敵が攻めて来た場合、お互いに助け合って自分たちの村を守る)も互いに結ばれていたようです。古代ギリシャの都市国家(ポリス)を連想しますが、チェチェン社会の方がヒエラルキー(階層制や階級制のことで、主にピラミッド型の階級的組織行動)がないように思われます。

 

◆ロシア革命後

 1917年のロシア革命直後、北コーカサスの諸民族、正確には156のテイプ(氏族)が連合、団結し、ロシア帝国から新たな政体であるソビエト共産党に対し、「山岳共和国」(1917年~1922年)の建国を宣言。ただ、経済的には外部との交易を行わず、コーカサス地方を行き交う商人から通行税を取るぐらいで、産業はなく、人々はむしろ物々交換によって日常の生活を営んでいました。しかし国家としては、数年で経済的苦境に立たされます。1921年、ソ連の民族問題人民委員、ヨシフ・スターリンの提案により、ソビエトに帰属する事を条件に、「ソビエト山岳共和国」となります。しかしこの共和国も、ソビエト中央政府から派遣された共産党員の干渉によりまもなく解体され、1924年、独立国家から自治共和国へ降格されました。その後もチェチェン人の蜂起は止まらず、共産軍の弾圧にも屈しませんでした。

 1934年、西隣のイングーシとの合併によって、チェチェン・イングーシ自治州に、1936年には、チェチェン・イングーシ自治共和国に昇格します。

 

◆ナチスドイツに協力?

 第二次世界大戦中、チェチェン共和国に住む、およそ50万人のチェチェン人がカザフスタンに強制移住させられ、その半数が死亡したと言われています。飢餓によってその多くが亡くなりましたが、移住中、足手まといになった老人、病人、妊婦たちはソ連軍に射殺されました。

ソ連の指導者スターリンは、チェチェン人がナチスドイツに協力して、ソ連軍の戦いを妨害したとの疑いをかけました。

第二次世界大戦中、打倒ソビエトを掲げて、ドイツ側について戦ったチェチェン人がいた事は事実ですが、ほとんどの人は何もない荒野での強制労働で、スターリンが糾弾する敵対行為とはまったく無縁のものでした。その意味では多くの人達が冤罪でした。

>>>>> 第二次世界大戦後、10年以上経過して、チェチェン人の名誉は回復され、チェチェン共和国に帰還することが許されました。しかし、ソ連・ロシアに対する憎しみはますます激しくなっていきました。

 

◆ソビエト崩壊前後から第一次チェチェン紛争へ

 以上のような経緯によって、ソ連統治下においても、チェチェンの人々は独立の希望を持ち続けていました。ソビエト連邦としての求心力衰退が見られる1980年代後半から、このチェチェン独立の機運が再び高まってきます。

 1991年12月、ソビエト連邦が崩壊。その1ヶ月前、元ソ連空軍少将のドゥダーエフ氏が共和国選挙で当選し、大統領に選出され、一方的にチェチェン独立を宣言します。この独立宣言を認めないロシアのエリツィン大統領は、1994年12月、チェチェンにロシア軍を本格的に投入し、首都グローズヌイ陥落を目的に執拗な空爆を繰り返し、多くの市民が殺害されました。チェチェン側もゲリラ作戦などで激しく抵抗。第一次チェチェン紛争の勃発です。ロシア軍は予想外に苦戦します。同じイスラム教徒であるチェチェン人を救おうと、聖戦の名の下、海外のイスラム国から多くの義勇兵が参加します。ゲリラ戦に不慣れなロシア兵は、山岳部の戦いでチェチェンゲリラの攻撃に苦杯をなめました。1996年8月、独立問題を5年間先送りする事等を条件に、一応の停戦合意が結ばれます。第一次チェチェン紛争において、約2万人のロシア兵が死亡。チェチェン人の死者は、ドゥダーエフ大統領を含め、推定10万人。20万人が難民化したと言われています。紛争前のチェチェン人口70万を考えれば、その被害の凄まじさが理解できると思います。1997年、ロシア軍はチェチェンから完全撤退します。

 

◆第二次チェチェン紛争

 しかし、まもなくモスクワで連続爆破事件が起こります。また、チェチェン武装勢力が隣国ダゲスタン共和国に侵入します。ロシア政府は、これをチェチェン武装勢力によるテロ、侵略と断定。1999年、再びチェチェンを攻撃し、チェチェン全土に空爆を開始します。第二次チェチェン紛争の勃発です。テロ攻撃に対する恐怖で、反チェチェン感情が高まるロシアでは、プーチン首相の人気が上昇します。近年、このチェチェンのタゲスタン侵攻やモスクワでのテロが、ロシア特殊機関の陰謀、あるいは自作自演であるとの発表もされています。もちろんロシア側は否定しています。ロシアの攻撃に疑問を唱える人の多くが、次々と、なぞの死をとげたり、暗殺されています。一般市民を巻き込み、10万人以上の犠牲者が出ました。

「9・11」以降の世界的な「テロとの戦い」のなか、プーチンの強硬政策の批判はかわされ、アメリカにとってのアルカイダ、ロシアにとってのチェチェンの図式が作り出され、「チェチェンはテロリスト」の大義名分をロシアに与えることになりました。

 

◆世界を震撼させる事件が

 2002年10月23日、約40名のチェチェン武装勢力がモスクワの劇場を占拠。922人の観客を人質にしました。チェチェンに駐留するロシア軍の撤退を要求。ロシア側がその要求を受け入れない場合は、人質殺害、劇場爆破と脅しました。テロリストとは交渉しない強硬姿勢のプーチン(この時は大統領)は、テロ発生4日目、特殊部隊突入によって犯行グループ全員を殺害。同時に129人の人質の命も失いました。

 特殊部隊突入による毒ガスによって人質が命を落としました。もし日本で同様の事件が起こったら、日本政府はどのような行動をとるだろうかと考えてしまいました。

 

◆終結宣言の後も

 その後、チェチェン独立指導者は次々に殺害され、表面的にはその独立運動は低下してきたように見えました。2009年4月16日、ロシア連邦は、第二次チェチェン紛争勃発(1999年)以来続いていた、対テロ作戦体制を解除しました。しかしその後もテロが起こっています。2011年現在でも、武装勢力による攻撃の可能性は残っています。この地域の情勢が安定するには、まだまだ時間が必要だと思われます。

 

◆チェチェンはなぜ独立できないのか?

 答えは簡単で、ロシアが独立させたくないからです。なぜか?よく言われる事は、カスピ海油田からロシアへの石油パイプラインは、首都グロズヌイを通過している。チェチェンが独立すると、ロシアは石油の利権を失ってしまうという説明です。実際には、チェチェンで採掘される石油量は、それほど多くなく、石油パイプラインはすでにチェチェン迂回路が建設されています。

 つまり、多くの犠牲を払ってなお、独立を阻止する根本理由は、石油資源の確保ではないと思われます。

 1991年、ソビエト連邦崩壊後、ウズベキスタン、タジキスタン、グルジア、アゼルバイシャン、アルメニア等の国が独立していくなか、なぜチェチェンは独立できなかったのか?

 ソビエト連邦は、15の連邦構成共和国で形成されていました。独立した国々は、その構成共和国の1つでした。現在のロシアも「ロシア連邦共和国」として、15の構成国の1つでした。そして、チェチェンは「ロシア連邦共和国」のなかの自治共和国であり、ソビエト崩壊後独立した国とは、行政単位が異なります。つまり、チェチェンは、ソビエト連邦時代からソ連邦の構成国ではなくロシアに属する国なのです。もし現在のロシアがチェチェンの独立を認めれば、ロシア内に存在するその他の少数民族も、ロシアから離れようとする。その事をロシアは最も恐れていると思います。

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誰にでも分かる世界の紛争(その17)

常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”グルジア”

 

◆クレオパトラの涙

 多くの民族が行き交うシルクロードの要所。多くの異なる言語が話され、様々な文化の交差点コーカサス地方に位置する国グルジア。

 黒海とカスピ海にはさまれたコーカサス山脈一帯は「ぶどう発祥の地」と言われています。グルジアは、8,000年の歴史を誇る、世界最古のワイン生産地の1つなのです。

 強権を誇った歴史上の人物、あのクレオパトラは芳醇なグルジアワインをこよなく愛し、一人孤独を紛らわして涙を流したとの伝承が残っています。そこからグルジアワインを「クレオパトラの涙」と呼ばれるようになりました。

 英国のチャーチル首相もグルジアワインに魅せられ、「このグルジアワインを私は生涯に渡り買い占めたい」と語ったと伝えられています。

 かつてのソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンもグルジア人としてこの母国グルジアワインを愛飲していたことはよく知られています。

 

◆缶コーヒー「ジョージア」?

 グルジアの面積は7万平方キロメートル(日本のおよそ5分の1)人口は約420万人。公用語はグルジア語。

グルジアはロシア語の発音に基づいています。2009年、グルジア政府は日本語における国名表記をロシア語表記から英語の発音のジョージアに変更するよう日本政府に要請しました。

 日本政府は米国のジョージア州と混同する理由等でまだ正式には変更を認めていません。まさか缶コーヒー 「ジョージア」と同じ名前になる事への心配ではないと思いますが?

  

◆ソ連邦からの独立まで

 グルジア人は紀元前から現在のコーカサス地方に暮らしてきました。しかし多様な民族が複雑にからみあい常に他民族からの侵略を受けた歴史をもっています。337年、世界で2番目にキリスト教を国教化して以来現在でも国民の70パーセントはキリスト教(グルジア正教)を信じています。

 ちなみに301年、世界で初めてキリスト教を国教化した国はアルメニアです。キリスト教のあと、イスラム教も広がり、今ではイスラム教徒が多数暮らしています。19世紀後半グルジアはロシア帝国に武力併合されます。日本での国名がロシア語表記を嫌う理由もこの歴史的事実からきていると思われます。

 ロシア革命後の1918年5月26日、グルジア民主主義共和国として独立宣言します。しかしその後まもなく、1922年ソビエト連邦構成国に取り込まれます。およそ70年後、1991年12月、ソビエト連邦の解体によりグルジアは独立を果たす事になりました。

 

◆グルジア紛争=アブハジア紛争+南オセチア紛争

 長年のソビエトやロシア支配から独立したグルジアですが、そのグルジアからの独立を求める2地域が存在します。南オセチア自治州とアブハジア自治共和国です。共にロシアの支援を受けてグルジアからの分離独立を望んでいます。なぜでしょうか?

  ソビエト連邦からのグルジア独立を目指したグルジア民族主義の喚起は、グルジア内に残る火種、グルジアに住む少数民族主義にも火をつける結果となったのです。

 当然ですが、グルジアに住む大半の人達、およそ85パーセントはグルジア人です。しかし、南オセチアには多くのオセット人(オセチア人)、アブハジアには多くのアブハズ人が暮らしています。 グルジア内の少数民族が住む地域としてソ連時代から一定の自治権が与えれていました。

「1991年のグルジア独立後、グルジアからの分離、独立を望む南オセチア、アブハジアそしてそれを支援するロシアの思惑VSそれを阻止するグルジアとそれを支援する欧米、特に米国の思惑」

 これが、グルジア紛争の背景なのです。

 

◆アブハジア紛争

 アブハジアには、アブハズ語を話すアブハズ人、アブハズ民族が存在します。面積は86,000平方キロメートルで面積はほぼ兵庫県と同じです。グルジア人の大半がキリスト教徒(グルジア正教徒)に対して、アブハジアに住むアブハズ人はイスラム教徒です。16世紀から17世紀にかけて、アブハジアはオスマン帝国の支配を受け、その時アブハズ人はキリスト教からイスラム教に改宗しました。

 ソ連崩壊前は「黒海の真珠」と呼ばれ黒海沿岸のリゾート地で、50万人以上の人達が暮らしていましたが、今では、およそ21万5千に激減してしまいました。内戦の影響で住民の多くが難民となったからです。

 アブハズ人にとってグルジア民族主義者による文化的、政治的、「グルジア化」に対する危惧がソビエト時代から存在します。この危惧はソ連崩壊とグルジア独立宣言によって「グルジア同化主義」へのアブハズ人の反発として行動に現れます。グルジア独立の翌年1992年7月アブハジアは独立宣言を行いますが、これに対してグルジアが兵を派遣、独立をめざすアブハジア武装グループとの戦闘が始まります。戦闘開始直後はグルジア軍が優勢でしたが、イスラム教徒の義勇軍支援や強力なロシア軍の協力でアブハジアはグルジアに勝利しました。1994年停戦合意が成立。以来アブハジアにはロシア軍が平和維持軍として駐留し、一部の地域を除いて、グルジア政府の関与はありません。

この時アブハジアに住んでいた多くのグルジア人が民族浄化の対象となり、多くの難民を生む事になったのです。この難民、避難民の問題は未だ解決されていません。

  

◆南オセチア- 分断された同胞の国

 オセチアに住む人達はオセット人と呼ばれています。彼らはイラン系の人種で、オセット語を話します。

ロシア革命後、1922年、北オセチアはソビエト連邦を構成する15の共和国の一つ、ロシアに、南オセチアはグルジアに組み込まれました。同じ民族が南北に2分されたのでした。

南オセチアの面積は3,900平方キロメートルで面積は埼玉県とほぼ同じです。

 1991年のソビエト崩壊後も、北オセチアはロシア(ロシア連邦内の共和国)に所属しています。

 一方の南オセチアでは、前述のアブハジアにおける事例と同様、グルジアにおける民族主義高揚をオセット人としての民族存亡の危機と捉え始めました。両者の緊張が高まってきます。1991年、ソ連から独立したグルジアは、独立以前に制定されたグルジア言語法により南オセチアでの公用語もグルジア語に限定しようとしました。またグルジア独立前年には南オセチアはグルジアからロシアへの帰属転換を一方的に宣言。分断されていた同じ北と南の民族地域を統合した上でロシアへの帰属を求めたのでした。

 これをグルジアは承認しないだけではなく、南オセチアがソビエト時代にもっていた自治権も廃止してしまいます。

 まもなく、両者の武力衝突が頻発し、グルジア独立の翌年1992年、南オセチアは独立を宣言、ロシアの武力援助を受けグルジアに勝利。6月には停戦が実現し、ロシア軍と南オセチア軍で構成された平和維持軍の駐留が決定します。

 南オセチアの人口はソ連時代には、10万人を超えていましたが、紛争による難民の流出により現在ではおよそ7万人になりました。ロシアは南オセチア住民の多くにロシア国籍を与えています。ロシア軍の介入がロシア国民を守るとの理由付けとなっています。グルジア政府の統治が及ばない中、南オセチアのロシア化は確実に進んでいるのが現実です。

 

◆バラ革命

 1985年から1990年までソビエト連邦の外務大臣を務めたグルジア出身のエドゥアルド・シェワルナゼ氏がグルジア独立翌年の1992年、グルジア国家評議会議長となり、グルジア最高指導者となります。独立後の混乱を立て直すため、ソ連のミハエル・ゴルバチョフ大統領が唱えたペレストロイカ(ロシア語で立て直し、ソ連の社会主義改革)を推進し、世界で名の知れた人物の擁立でした。

 シェワルナゼ氏は1995年からはグルジア大統領を務めます。シェワルナゼ政権は穏健でゆったりとした変革を進めました。旧共産党エリート中心の政権で、事なかれ主義と腐敗が蔓延します。国民の不満は徐々に膨らんでいきました。

 そのような中で、2003年11月に行われた議会選挙が行われましたが、その結果が明らかに、非民主的でシェワルナゼ側に不正操作があった事が明らかになります。

 野党側の政治家は自分たちの勝利を主張し、シェワルナゼ政権に対する抗議のデモを呼びかけました。

 11月22日、不正選挙の結果開会された新議会が開催されますが、野党支持者は議会ビルを占拠し、シェワルナゼ開会演説を妨害します。そして、シェワルナゼは逃亡する事になりました。この時人々はそれぞれバラの花をもって集まり、シェワルナゼ逃亡の後、バラを置いて去って行きました。バラは無血革命としての非暴力の象徴でした。そのためこの政変劇は「バラ革命」と呼ばれています。

 シェワルナゼはこの後、ドイツから亡命受け入れを打診されます。ドイツはシェワルナゼがソビエト外相時代に東西ドイツ統一に努力してくれた恩を忘れていなかったのでした。

それでも、シェワルナゼはグルジアに残る選択をくだしました。

 

◆ミハイル・サアカシュビリ大統領

 バラ革命でシュワルナゼ大統領は退陣しました。 2004年1月の大統領選挙でミハイル・サアカシュビリが大得票を獲得して大統領に選ばれました。グルジアの新しいリーダーとして36歳でその責任を背負う事になります。

 彼はバラ革命においても先頭にたち指導的役割を果たしました。グルジアの首都トビシリに1967年に生まれます。父は医師、母は歴史学者。米国のコロンビア大学で学び、ニューヨークの法律事務所で働いていました。

 グルジアは1991年以来、ロシアから離れ、欧米との関係を構築する方針を打ち出してきましたが、サアカシュビリ政権になりこの動きに拍車がかかりました。

対ロシア強硬派が中心の米国ネオコンとの関係も深く、サアカシュビリ大統領は露骨にも思える反ロシア路線をとります。この事が数年後のロシアとの軍事衝突へとつながっていく要因になったと思えます。

 グルジア国内の問題では、アブハジア、南オセチア以外にも、独立以来グルジアの主権が及ばなかった地域があります。トルコと接するアジャリア自治共和国です。人口はおよそ40万人です。

 民族的にはグルジア人と同じですが、一般のグルジア人の信じるグルジア正教(キリスト教)ではなくイスラム教徒です。そのためか文化的独自性が強く、グルジアとは一線を画してきました。グルジア政府への納税義務も拒否。前シュワルナゼ政権が野放しにしていたこの地域にサアカシュビリ政権は2004年、グルジアの主権を回復します。

グルジア全土の自治回復と統一を選挙公約にして当選したサアカシュビリ大統領ですが、

南オセチアやアブハジアの自治回復は、アジャリアと同じようには行きませんでした。

 

◆ロシア・グルジア戦争(南オセチア紛争) 2008年 

 2008年8月7日深夜、グルジア軍が南オセチアの中心都市に対して軍事攻撃を開始します。南オセチアに駐留する平和維持軍と言う名のロシア軍に対して攻撃したのでした。

 南オセチアでのグルジア主権回復に焦ったサーカシビリ大統領の一か八かの軍事行動でした。圧倒的軍事力を誇るロシア軍に反撃され、5日目にはグルジアは停戦を申し入れ、EU(欧州連合)の仲介により8月12日ロシアも停戦に合意します。国際社会、特に米国の軍事介入を期待してのグルジアの攻撃であったと思われますが、明らかに、サーカシビリ大統領の間違った判断でした。

 欧米はロシアの行き過ぎた反撃やグルジア領土内への侵攻を非難しますが、現実に欧米各国がコーカサスの小国グルジアを守る為に軍事介入すると本当に考えていたとするなら、取り返しのつかないミスを犯しました。国際社会を見方にする為、国際社会の同情を引きつける為には少なくともグルジア側から南オセチアに侵攻する選択肢はなかったはずです。

 ロシアは反撃という口実を見つけました。南オセチア、アブハジアへの軍事的支配を強化し、両地域を独立国として承認します。大統領のグルジア全土の統一という公約はますます遠ざかっていきました。

 

◆これからのグルジアは?

 欧米との関係を強化し、ロシアとの軍事的対抗上サーカシュヴィリ大統領は、NATO加盟を目指しています。このグルジアのNATO加盟に対してロシアはNATOの拡張主義として大きな脅威を感じています。

 ロシアのグルジアへの介入について、グルジアの地政学的な側面、戦略的に重要な拠点であること。またカスピ海の豊富な資源への関心などが力説されますが、それと同様に、あるいはそれ以上に旧ソビエト連邦の国々のしん欧米かへの懸念。

 またこの地域への影響力の低下を大国ロシアとしてのプライドが許さないかもしれません。

 グルジアの進む道は、欧米諸国との関係を強化すると同時にロシアとの対話のパイプを持ち続け、友好関係を構築し、国際社会の関心を得つつ、粘り強く交渉する以外に道はないでしょう。グルジア人の根強い歴史的反ロシア感情を考えても、それは大きな挑戦であると思いますが。

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誰にでも分かる世界の紛争(その18)常務理事・主任研究員 矢野裕巳

”アルメニア”

 

◆世界一の美人国 ?

以前、明石家さんま、所ジョージ司会のテレビ番組で「美人の国」としてアルメニアが紹介されました。女性の美しさについて、国際基準はありませんが、世界各国を旅した人のルポには、アルメニアの印象としてすれ違う女性の多くがモデル級と書かれています。100ヶ国以上を旅したトラベルライターの森本剛史さんは、掛け値なしにアルメニアは世界一の美人国だと思うと書いています。

◆世界で最初に

アルメニアの首都エレバン

 アルメニアはカスピ海と黒海に挟まれたカフカス山脈の南に位置し、面積は2万9,800平方キロメートルで日本の10分の1程度です。人口およそ300万人。首都エレバンは世界最古の都市の1つで、国の人口の3分の1以上、およそ110万が暮らしています。

 公用語はアルメニア語でギリシャ文字やアッシリア文字に由来する独自のアルメニア文字を使用しています。

 301年アルメニアは世界で最初にキリスト教を国教とした国です。 ちなみに2番目は前回取り上げたグルジアです。現在もキリスト教(アルメニア教会)の信者が国民のほとんどです。後で述べる隣国との紛争で、多くの外国人がアルメニアから脱出したので、国の90パーセント以上がアルメニア人で構成されています。多民族が特徴のコーカサスにおいては珍しい人口構成です。

◆その時代の大国により

 アルメニアの歴史は非常に古く、紀元前14世紀のヒッタイト帝国に記録が残っています。紀元前9世紀には、現在のアルメニアの起源とされるウラルトゥ王国(アララット王国)がアルメニア最初の統一国家として成立しています。

 紀元前1世紀には、ティグラン2世大王がアルメニア高原を中心に、黒海、カスピ海、地中海にまたがる大アルメニア王国を作ります。

 その後ペルシャ、アラブ、ビザンチン帝国、セルジューク・トルコなどに侵略、支配され、10世紀には多くのアルメニア人が祖国を後にしました。13世紀には、モンゴルが侵略し、15世紀までアルメニアを支配。16世紀に入るとアルメニアは、オスマン帝国(トルコ)とサファーヴィー朝ペルシャ(イラン)による争奪戦で、結果として両国の支配を受ける事になります。18世紀、ロシアがアルメニア争奪戦に加わり、19世紀にはロシア領となります。

 1936年にソビエト連邦を構成するアルメニア・ソビエト社会主義共和国となります。その後ソビエトの崩壊により1991年、アルメニア共和国として独立します。アルメニアは、常にその時代の大国の前に屈して、常に国境線は動かされてきました。

 自分たちの政治的独立を失った多くのアルメニア人は、その変遷のなかで他国に移住し続けてきたのです。

◆ディアスポラ

 アルメニア人はディアスポラの民であると言われます。ギリシャ語で「離散」を意味するディアスポラは、本国を離れて暮らす人々を表現します。一般的には文字通り、世界に「離散」しているユダヤ人のことで、現在のイスラエルを離れて暮らす彼らをこのように呼んでいます。 

 同様に、アルメニア本国を離れて暮らす、在外アルメニア人もディアスポラです。 

 アルメニア本国のおよそ2倍の600万人のアルメニア人が、国外で生活しています。

 歴史的侵略の歴史による離散に加えて、本国に際立った産業をもたない事が大きな原因です。

 1991年、ソビエト崩壊後の独立により、優秀な若者の人材流出に拍車がかかっています。国内の失業率の高さを考えても、アルメニア国内の人口減少問題に歯止めをかける事はますます難しくなっています。

◆ユダヤ人3人よりも

 国内に産業のないアルメニア経済を現実に支えているのは、国外で成功しているアルメニア人です。

 世界的に活躍するアルメニア人は多く、少しく例をあげれば、ドイツの世界的指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン、フランスのシャンソン歌手、シャルル・アズナヴールやシリヴィー・バルタン、米国の作家、ウイリアム・サローヤン。

世界的に有名なシンガポールの高級ホテル「ラッフルズホテル」の創設者もアルメニア人のサーキーズ兄弟です。「ユダヤ人3人よりもアルメニア人1人の方が商売上手」という言葉もあります。

◆アルメニアロビー

 経済的側面だけでなく、政治、外交の分野においてもアルメニアを支えているのがアルメニアロビーです。

 アルメニア移民の多い米国やフランスでのアルメニアロビーの影響力は非常に大きいのです。

 ロビーとは、特定の主張を有する個人、団体が政府の政策に影響を及ぼすことを目的として官僚、政治家、公務員へ向けた、合法的政治活動です。ホテルのロビーで行われる事が多いので、このように呼ばれ、そのロビー活動を行う人は、ロビイストと呼ばれています。日本では、ロビー活動は癒着、買収のイメージが大きく、それほどの影響力を持っているとは思えませんが、海外では、国の政策、特に外交政策に大きな影響を及ぼしています。

 外交政策をイスラエルにとって有利に動かそうとする、強力な米国のイスラエルロビーは有名ですが、米国やフランスでのアルメニアロビーの活発な働きもよく知られています。

 米国には約140万人、フランスには約45万人のアルメニア系の人達が暮らしています。

◆西の隣国トルコとの紛争

 19世紀末から20世紀初頭、アルメニアを支配していたオスマン帝国により、多くのアルメニア人が殺害されました。特に第一次世界大戦中、1915年から1916年にかけて150万人ものアルメニア人の命が奪われたと言われています。

 オスマン帝国から独立を画策するアルメニア人は、オスマン帝国の敵国ロシアに内通しているとして強制移住させられ、組織的に虐殺されました。それはナチスドイツのユダヤ人に対するホロコーストと同じだというのが、アルメニアの、そしてアルメニアロビーの考えです。そしてオスマン帝国からその後継国家である現在のトルコ共和国に対して、一貫してその責任を認めるべきであると国際的圧力を加え続けています。

 当然ながら、一方のトルコはこのような「虐殺」の組織性、計画性を認めていません。独立のため武装したアルメニアは、トルコの敵国ロシアを支援。その戦闘により、多くのアルメニア人が死亡。しかし実際には、多くのアルメニア人死者は飢餓が原因であると言うのがトルコの主張です。死者の数も40万前後で、しかもほぼ同数のトルコ人がこの戦闘で亡くなっているとの見解。双方に犠牲が出た不幸な戦争の歴史との認識です。

◆東の隣国アゼルバイジャンとの紛争

 アルメニアは東の隣国、アゼルバイジャンと大きな紛争を抱えています。既に述べたようにアルメニアは世界最初のキリスト教国です。アゼルバイジャンはトルコ同様、イスラム教徒が主流の国です。そのアゼルバイジャン国内西方に「ナゴルノ・カルバフ自治州」が存在します。この地域の8割以上はキリスト教を信仰するアルメニア人です。つまりアゼルバイジャン国内に存在するアルメニアなのです。現実にアルメニアの支配を受けており、道路はアルメニアにつながっています。

当然アゼルバイジャンは、自国内の独立を決して認めようとしません。

◆ナゴルノ・カラバフ紛争

 1991年のソビエト連邦崩壊後、アルメニア、アゼルバイジャン両国とも独立を果たします。

 ソビエト時代、「ナゴルノ・カラバフ」はソビエト連邦を構成する15の共和国の1つアゼルバイジャン内の自治州として、アルメニア人の自治権が認められていました。アルメニアとアゼルバイジャンは民族が違うだけでなく、アルメニアはキリスト教、アゼルバイジャンはイスラム教と宗教も違っています。1917年のロシア革命時にも争いがありましたが、ソビエトの力で争いは押さえられていました。

ソビエト連邦崩壊前後の民族意識高揚により、ナゴルノ・カラバフのアルメニア人は、アルメニアへの帰属を望むようになります。 

 それに対して、アゼルバイジャンは、自治州を廃止し自国のアルメニア人の自治権を取り上げます。反発を強めるナゴルノ・カラバフは、1992年「ナゴルノ・カラバフ共和国」としてアゼルバイジャンからの独立を一方的に宣言。アゼルバイジャンが軍を投入するとアルメニアがナゴルノ・カラバフの自国民保護を理由に軍事介入。アゼルバイジャン、アルメニアの本格的な争いとなりました。ロシアがアルメニアを、イラン、トルコがアゼルバイジャンを陰で支援する事で、それぞれの国の思惑が重なり合い、問題はより複雑になっていきました。

 紛争は2年にわたり、紛争と呼ぶにはロケット弾まで飛び出す本格的な戦争となりました。1994年の停戦時には、アルメニアはナゴルノ・カラバフほぼ全土だけでなく、その周辺まで占領しました。はっきりとした戦死者はいまだわかりませんが、推定でアルメニア人が約6,000人、アゼルバイジャン人が約28,000人。ナゴルノ・カラバフやその周辺から逃れたアゼルバイジャン人はおよそ60万人。アゼルバイジャンにかつて住んでいたアルメニア人で、アルメニア本国やロシアに逃れたアルメニア人は約30万人。民族浄化の意図が感じられる争いの歴史となりました。

◆紛争は解決されたか?

 停戦後の和平調停は難航しました。調停案の内容が戦いを有利にしてきたアルメニアにとって、不利な条件でした。結果として、アルメニアはナゴルノ・カラバフの占領を続けています。アルメニア本国との道路も確保しつつ実行支配を強めています。2008年、アルメニア、アゼルバイジャン両国は対話を続ける事を確認する共同宣言に署名しましたが、現実には重要な問題はすべて棚上げされた状態です。

◆紛争解決によって

 旧ソビエトから独立した国々は過去の侵略の歴史から、ロシアから距離を置こうとします。その中で、親ロシアの立場をとる国がアルメニアです。ロシアに依存するしか選択肢がないのです。 その理由は2つです。

1.ナゴルノ・カラバフ紛争でロシアの支援なしに、この地を占拠し続ける事は不可能。ロシア軍の駐留が不可欠なのです。

2.アルメニアは資源を持たない小国で、資源を持つ隣国トルコ、アゼルバイジャンからは紛争によって資源の輸入ができない。現状、ガスや電力のほとんどをロシアから輸入しなければならないのです。 トルコ、アゼルバイジャンによる対アルメニア経済制裁政策で、アルメニア経済悪化は非常に大きいものです。     

 すでに述べたように、何世紀も前から多くのアルメニア人が欧米に暮らし、アルメニアの利益の為に世論を盛り上げ、議会や政府に強く働きかけています。彼らのライフスタイルからは欧米に近い印象を受けます。ロシアへの極度の依存から脱却するには、なんとしてもトルコ、アゼルバイジャンとの問題を解決しなければなりません。

 強力な米国やフランスでのアルメニアロビーの力を紛争解決に使わなければなりません。トルコに対して過去の行為への謝罪を要求し続けるだけでは、トルコとの根本的和解には至りません。過去への行き過ぎた批判は時に、憎悪の連鎖に陥る可能性を秘めています。

 ナゴルノ・カルバフ紛争が終わらなければ、アルメニアは欧米との関係をより発展的に築くこともできません。過去の歴史認識の違いは別にしてトルコとの和解も必要です。

 もちろんアルメニアサイドだけの努力では解決しませんが、なによりも隣国、トルコ、アゼルバイジャンとの問題解決なくしては、アルメニアの将来はありません。現実に海外のアルメニア人が支えようとする本国アルメニアそのものが、消滅してしまう危機をはらんでいる事を、考えなければならないと、私は強く思います。